楽園の果実
第九章 夜の剣戟(四)

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 一応、用心のためヒュートスとほか数人を宿の警護に残し、アネモスはラピスとクエルクスを馬車にいざなった。幕の降りた車の外では、夜中の騒ぎに異常を感じて家から出てきた人々を帰そうと、警備隊が声を張り上げているのが聞こえる。  そうした音も小さくなってきた頃、馬車が止まった。到着を知らされて降りれば、青い屋根に雪を冠した平屋建ての屋敷の前だった。アネモスは背丈ほどの高さの鉄門を開け、木組の扉の錠を回すと、屋敷の中へラピスたち二人を通した。  屋敷の中は、王の居所にしては随分と簡素に見えた。聞けば、この国境のジノーネの街は王の直轄領であるためしばしば王室の訪問があるものの、常駐するわけではないために余計な装飾は不要と現国王が取り払ってしまったという。  確かに屋敷内の装飾は少なく、床に布も敷かれていない。ただ窓にかかる布織物や廊下の照明に施された花模様の彫りは、一級の職人技によるものであるのは確かである。トーナの工芸技術の水準を知らせるに十分な質だった。 「どうぞこちらへ」  しばらく廊下を進んだところで、アネモスが右手の部屋を開けた。中には廊下の調度品に比べると装飾の多い、上質な布張りの椅子が向かい合って並んでいる。王滞在時の謁見用に誂えられたのだろう。 「こちらでお待ちください。ただいま陛下をお連れ致します」  そう言うとアネモスは一礼して部屋を出て行った。閉じられた扉を見つめたまま、カツカツという靴音が足早に遠ざかっていくのを、ラピスとクエルクスはじっと聞いていた。  ランプの橙色の灯りが部屋をぼんやりと彩り、二人の影が壁に伸びる。自分たちの影なのに、ラピスは不思議と胸が疼いた。  しばらく、夜の静寂が部屋の中を満たした。 「……あの、ラピス」  沈黙の中で、クエルクスが遠慮がちに切り出す。しかしラピスは依然として扉を見つめたまま微動だにしない。 「もうここは大丈夫だと思いますから、手、離しません?」  さっきからラピスはぴったりとクエルクスに引っ付き、布に細かな皺が寄るほど腕を強く掴んで離さないのだった。そのためクエルクスは下手に動けず、自分のうしろに半ば隠れるようにしているラピスの方を振り返って見ることもできない。 「だって」  数秒の間のあと、斜め後ろから小さな声がした。 「クエルクスとくっついてると、怖いの小さくなるんだもの」  後ろの方の言葉はすぼみがちになっていったが、敏感なクエルクスの耳には明瞭に聞こえてしまう。触れられるところが熱い。息を続く限り長く吐いて、クエルクスは呟いた。 「貴女って人は……僕を、殺す気ですか……」 「え? なに?」  クエルクスにとっては幸か不幸か、ラピスの問いは途中で遮られた。部屋の扉が重い音を立てて開いたのである。 「お二人とも、お待たせ致しました。陛下がお見えになりました」  一礼したアネモスは、扉を押さえたまま廊下の方へ体の向きを戻し、室内へ入る道を開けた。それに応じ、後ろに控えた人物が毛織の長衣の裾を床に滑らせ、部屋の中へ歩み入る。 「ようこそトーナへお越しくださいました。ユークレース王国ラピス王女。殿下も従者殿も、お二人とも、ご無事で何よりです」  涼やかな声でそう告げると、その女性は二人を見つめ、薄雪草が揺れるようにそっと微笑んだ。

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