「確かにこれは、難儀ですね」 クエルクスはラピスに話しかける風でもなく、吐息混じりに独り言ちた。 二人がいましがた歩を進めているのは木々が茂る森の中だ。空に向かって高く伸びた楠木の葉を明るく透かして、太陽の光が優しく照らす。そう時間をおかず、頻繁に旅人が通っているのだろう。下草の間に地肌を出す岩と土が踏み固められて、道らしきものができている。しかし朝露に濡れた地面は下手をすると足を取られそうで、クエルクスが前に立って安全な足場を確かめながら進み、その後をラピスが辿るという具合である。 うねりながら続く林道は、二人並んで歩くにも狭すぎる。とりあえず徒歩の旅人が通行さえできれば良いといった程度の「道」に過ぎない。 「ほんと、馬を預けてきて正解。これじゃあ馬が可哀想だわ」 ラチェーナの北門を出る時のことだ。 「そこの二人、何用で北へ?」 門を抜けようと通行証を見せたものの、明らかに若すぎる二人連れに門衛が懐疑心を露わにした。追加説明を求められるのは初めてではない。動じる様子もなく、クエルクスは宰相が作った勅書を見せた。 すると門衛の顔からはすぐに疑心の色が消え、代わりに人が良さそうで心配気な視線をこちらに寄越した。 「城からのお使いとはご苦労なこったが、若いのだけで大丈夫なのかい」 「こう見えても体力を見込まれての勅使だ。身軽な者の方が早いし」 飄々と答える青年の身の細さと、横に立つラピスをしげしげと見て、門衛は「しかしなあ」と頭を掻く。 「そっちは娘さんだろう。何だってわざわざ女の子が行く必要があるんだい」 二人の用向きは書面上、北方の国々への王の表敬訪問に関する使節ということになっている。年一度行われる国同士の訪問については、書簡ではなく直にその準備について勅使が打ち合わせに向かうのが慣例だ。しかし確かに、二人ほど若い者がその役を仰せつかうのは珍しい。 「この子は王女付きの女官だよ。今回は王女が同席するからね。王妃様がお隠れになった後、王女のために必要なことは直接、彼女が確認して、万全の準備をして欲しいというのが姫の御意向だ」 あらかじめ打合せしたわけでもないのにクエルクスはすらすらと嘘八百を並べ立てる。自分の準備くらい自分でやるわよ、と内心で文句を言いつつ、ラピスも口を挟まず素振りだけで肯定を示す。 差し当たり納得したらしい門衛は、それでも心底不安だというように続ける。 「なら仕方ないけど、悪いことは言わないから馬は置いていきなよ。この先の渓谷は馬なんて連れて通れる道じゃない。先で必要になったら、新しいのを借りるか買うかしな」 そのようなわけで、二人が帰路で再び立ち寄る時まで国からの預かり物として馬の面倒を見てやるという門衛の申し出に甘え、二人は馬を任せて徒歩で森に入ったのだった。 森の中に通る風がひんやりと頰を撫でる。いまは動いているからこそ少し汗ばむくらいだが、日が落ちれば気温もぐっと冷えるだろう。 「少し急ぎましょう」 傾斜が急になったところで先導していたクエルクスが下から手を差し出した。それに掴まりながら、ラピスも弾みをつけて岩の段を降りる。 足が地面に着いた時だ。ラピスの聴覚が、何か軽い絹の布ずれのような音を捉えた。 「クエル、水の音が聞こえる」 木々の中を通って聞こえる規則的な音は、葉ずれの音とは違う。フィウの森林を縫って流れる沢が近いのだ。 「良かった、もうすぐ渓谷を抜けられます」 目的地に近づいた安堵に四肢が力を取り戻し、足も軽く感じて二人の歩みは早くなる。静かなせせらぎと思われた音は次第に、水流が石にぶつかる音に近くなる。 さらに足を運ぶと、程なく視界が開けた。岩場の間、大きく段になったところに、木漏れ日を反射しながら水の流れが飛沫をあげて勢いよく山の斜面を滑り降りている。水は澄み渡り、光を透かした照葉樹の葉の色が水面に映って、淡い新緑色の帯が引かれたようだ。 「あれ、跳んで行けそうじゃない? あそこから向こうに渡ろう」 ラピスは流れの中に並んでいる岩を指差した。 しかし次の瞬間、ラピスの息が止まった。背後から低い唸り声がするのを耳にしたのだ。ラピスの方を振り返ったクエルクスの顔も、緊張で強張った。 二人が辿って来た林道の途中で、何匹もの犬がこちらを睨んでいたのである。目に見えるだけでもざっと二十匹はいよう。その上、視界から隠れた木の陰にも気配が感じられる。そしてどの犬も全身の毛が逆立ち、殺気を剥き出しにしているのだ。
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