道が狭くなり、騎乗したまま進むのが不可能なほど傾斜が急になったところで、二人は馬を降りた。栗毛は随分とクエルクスに懐いてしまい、別れを惜しんで何度もクエルクスの顔に鼻を擦り寄せていたが、優しく撫でられながら説得されると、後ろを振り返りつつも来た道を戻って行った。 山の中はこれまで何人も星読みが通ったのだろう。木々の間の狭いところがしっかり踏み固められ、地面に道と呼べるだけの跡がはっきりと出来ている。それを辿れば急すぎる傾斜や危険な足場をうまいこと避けながら峠に向かって進んでいくことができた。 次第に背の高い木々が増え、鳥の囀りが頭の遥か上から降ってくる。萠ゆる緑が空を隠しているが、見上げれば葉のそこかしこが陽の光を煌めかせ、碧く光って美しい。 突然春に変わってしまった山林の中は街中での暑さが嘘のような涼しさで、ラピスははじめのうち自分の体を腕で包んで風を避けないと身震いが起こりそうだった。しかし長いこと歩いているとやはり汗ばんでくる。気がついたら二人とも袖を捲り上げ、傾斜を増した山道を無言になって歩いていた。 葉を通して落ちる陽の色が朱を帯びてきた頃、道幅はひと一人が通れるほどになり、切り立った岩肌を縁取るように迂回し始めた。さらに進むと斜面の逆側は谷に変わって下から水音が聞こえる。沢があるのだろう。 二人は山肌側に荷物を持ち直し、谷へ滑り落ちないように足を動かす。そうやってそろそろと迂回路を進むにつれ、ラピスは目に映る岩肌の色が段々と明るくなっていくように感じた。 岩に手をつきながら斜面に沿って大きく曲がり、来た道が背後の山肌に隠れた頃、行く手に枝が突き出していた。茂った葉が二人の背丈を超えて広がり、視界を塞ぐ。幸い、枝の下には腰を折れば通れそうな間が空いている。振り返るラピスにクエルクスが頷いた。邪魔になる荷物をクエルクスに預け、ラピスは腕で顔をかばいながら枝葉の下に身を屈めた。 「う、わぁ……」 上半身だけ枝葉の向こう側に出たラピスは、目の前に広がった光景に思わず声を上げた。 「確かに、これは好都合だ」 ラピスに続いて枝をくぐり抜けたクエルクスも、彼にしては珍しく感嘆を露わに呟く。そこでは木々が太い幹を互いに反対の方向へ伸ばし、ぽっかりと彼方まで見晴らせる空間が開けていた。 高い空には羊雲が波の如く広がり、傾き始めた陽を受けて薄紅色の影を帯びている。山々の稜線はほんのりと黄味がかり、そこだけ光の帯が走って山麓の緑を映えさせていた。 「これなら、星も随分とよく見えるでしょうね」 そう言ってラピスが辺りを見回すと、二人が立つ山肌の側に簡素な木の扉が岩と岩の間に嵌め込まれているのが見つかった。大人の男が身を屈めれば入れそうな高さである。星読みが言う洞であることは間違いなかった。 上空高いところには鳶が輪を描いて飛翔している。天を仰いだクエルクスは大きく息を吸うと、リズムを付けて指笛を吹いた。峰にぶつかって返ってくる木霊に混じって、鳶がよく通る声で鳴き返す。 「何て言ったの?」 ラピスが聞くと、手のひらを日除けにしながら空を見て、クエルクスは微笑んだ。 「ちょっと挨拶を。今日ここに泊めてもらうって。彼らの縄張りかもしれないし」 「ああ、そうね」 ラピスもクエルクスと同じ方向へ顔を向け、両の手を広げて口に当てる。 「こんにちはー! お邪魔しまーす!」 大きく手を振るラピスに苦笑しながら、クエルクスは谷合に背を向けて洞の入り口へ荷物を運んで行く。鳶は黒い大きな羽根を広げ、二人の頭上を回り続けている。その羽根の向こうで雲は太陽の片端を包み込み、青空に映えた白色が橙の光に染まり上がって、黄金色の眩しい煌めきがその輪郭を浮かび上がらせ始めた。 世界が段々と宵へ進んでいく一刻一刻が、ラピスの瑠璃の瞳に映る。腕の力がふっと抜ける。海辺のリアでは見ることのなかった山の黄昏が、ユークレースから遠く離れたことを痛感させた。 「ラピス?」 美しい景色に釘付けになっていたラピスは、クエルクスの呼ぶ声に短く答えて、初めて自分の頬が濡れているのに気がついた。 「いま行くから」 声をわざと高くして答え、急いで目を擦る。そして洞の中に入ったクエルクスを追おうと足を踏み出した。 その時だった。 山間から風が吹き上げ、ラピスの髪を宙へ躍らせた。背中にぞくりと寒気が走る。顔にかかる髪を押さえて振り返る。 しかしもうその時には風は止み、鳶は何事もなかったように頭上を旋回し続けている。 ふと、星読みの青年の顔が思い出された。 丘の上の宿の食堂。夏に変わった強い日が窓越しに降り注いでいた。食卓の木目は色明るく照らされ、卓上で動く青年の筆についた金具が白い光を乱反射させる。 落ち着いた青年の声がラピスの耳のすぐそばに蘇るようだ。 ——星読みが高台に登るきっかけは…… 「ラピス、来てみて」 洞の中からクエルクスが呼んだ。 身を翻す前にラピスの瞳に映った春の空は、一瞬前よりも黄昏色を増し、雲から顔を出した太陽が山の峰に近づいていた。 「うわぁ」 半開きになった木戸を押して洞窟の中に入ったラピスは、中の光景を見て嘆息した。そこには狭い入り口からは想像できないほどぽっかりと広く空いた「部屋」が出来ていた。庶民向けの宿屋の一室ほどの大きさだろうか。寝台が二つほど悠々置ける奥行きがある。砂利の混じる地面には、木戸から数歩のところから奥まで厚手の織物が敷かれ、その上に様々な生活用品が整理して置かれていた。 「しっかり投宿できるように設えられていますね。落石予防まで……」 クエルクスは腕を伸ばして頭上の岩壁に手を当てる。その指に黒い糸が食い込むのを見て、ラピスも岩壁に目の小さな網が張られているのに気がついた。 「本当ね。天井中にしっかり。洞窟の窪みもどこもかしこも活用しているし、見事な『部屋』だわ」 ぐるりと首を回して見れば、岩壁には釘が打たれて調理器具が吊るされ、洞の隅には毛布が何枚か畳んで置かれていた。クエルクスは遠慮なく洞の中の物を手に取って検分している。 「ちょっと食料も頂くかな。干し肉と芋がある」 「お水は? 私たちが持っている分じゃそろそろ足りなくなっているわよね」 二人が宮殿で貰った水筒は急勾配の山を登る中でもうすっかり軽くなってしまっていた。節約しながら飲んでも明日の分まで足りないだろう。 「せせらぎが聞こえましたから、水流が近いと思います。日が落ち切る前に汲んできますよ」 不安気なラピスとは反対に、クエルクスは手際よく荷を解きながら答えると、ラピスの手から水筒を受け取る。 「ラピスはここから動かないで。追っ手が来る心配はなさそうだけれど、下手に外に出たら獣に襲われないとも限らないから」 そう言うと、クエルクスはさっさと洞の入り口から外に出て行ってしまった。木戸の向こうにクエルクスの背中が消えるのを見送ってから、ラピスは床に広げられた荷物を眺める。 「せめてご飯くらいは用意しなきゃ、ね」 いつもクエルクスに任せきりになるわけにはいかない。ラピスは腕を捲り、よし、と頷いた。
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