「さて、次の州境を越えたら秋の国の入り口になるわけだけど」 女性陣のために借りた宿の一室で、アネモスが地図を前に切り出した。アネモスの横の寝台では、椅子が足りないためラピスが寝っ転がった姿勢で卓を見ており、打ち合わせのために呼ばれたクエルクスとヒュートスもアネモスの向かいに並んで座っていた。 「行けばわかるけれど、本当にそこにいつでも変わらず色づいた紅葉の林が広がっているだけなのよ」 ラピスとクエルクスの視線を感じ、ヒュートスも同意を示して首肯する。秋の国とトーナを隔てる物理的な障害、具体的には山谷や河川は何も無い。地図上でも、このまま街道沿いに進んでいけば難なく到着することになっている。 「知っての通り、秋の国は神域と言われている。そりゃ入ろうと思えば簡単に入れる。魔法みたいな力で跳ね返されることもないしね」 「行ったことがあるのですか?」 「入り口までなら一応、視察にくらいはね」 ラピスの疑問にアネモスは微笑を返す。アネモスは王族相手と思えぬほど早くにラピスと打ち解けてしまった。その理由の一つはラピスをアネモスの妹という体裁にしたことだろう。道中でユークレースの王女が訪れているとわかっては何かと面倒であるし、パニアの目をいくらか誤魔化すためにはラピスの素性を隠す必要があったのだ。ただそれだけではなく、世話になる身にもかかわらず王族というだけで敬語を使われる理由がない、とラピスが言い張ったことも大きい。 真剣な面持ちに戻り、アネモスが続ける。 「でも神々が住まう国は不可侵という認識があるし、実際に隣接するトーナの者でも、足を踏み入れたものがいるなんて聞いたことないわ」 「まあ本当のところを言えば、入っていって何が起こるか怖いっていう方が強いだろうけどね」 徒らに卓の木目を指でなぞりながらヒュートスが口を挟む。なるほど、とクエルクスが呟いて、「それで?」とアネモスに先を促した。 「つまりね、秋の国までは連れて行けるけれど、その先どうやって奇跡の林檎まで辿り着くかが問題ってこと。さすがに神域へパニアの腰抜けが先回りして入っているとは思わないけれど、秋の国の中にどんな獣がいるかもわからないのはかなり危ういでしょ。それも本当に二人だけで行くっていうなら、なおさら」 それでもいいの、と強く念を押すように見つめられて、ラピスはゆっくりと、だがアネモスの茶の瞳をしかと見つめ返しながら頷いた。 女王の側近である近衛団数名が随伴するにあたり、ラピスが出した条件。それはアネモスたちに送ってもらうのはトーナの国内のみであり、秋の国の内部には自分とクエルクスだけで行く、というものだった。 神々が住まう秋の国が人智の及ばぬ聖域であるということは、その内部でどのような危険があるかもわからないということだ。奇跡の林檎を手に入れるのはあくまでもユークレース国王の治癒のためであり、ユークレースの民である自分たちの責務で全うしなければならない。そのためにトーナの人々が難に遭うのは断じて許されない。これがラピスの主張だった。そうは言っても、とトーナ女王もアネモスもラピスの説得を試みたが、トーナに何かあれば自分だけではなく父のユークレース国王こそ、親交国としてよりも旧友として、自責にどれほど心を痛めるかと必死に説かれては、承諾するより他はなかったのである。 「二人で行くこと自体はお気になさらないでください。僕が守ります」 きっぱりとした返答には一糸の迷いも感じられない。それは黒鳶の瞳の鋭さを見れば、なお明らかだった。同意を示し、ラピスの方も頷く。そんな二人の様子を見てアネモスは肩をすくめた。 「分かった。何言っても決めたら曲げなさそうだしね。それじゃあ入り口まで送るけど」 アネモスは地図上で人差し指を滑らせ、宿からさらに先へ進む行程について、途中で馬替えをする地点や必要物資を購入できる最後の町などを詳しく説明しはじめた。そしてあらかたの話が終わると、ふぅ、と吐息しつつ背もたれに体を預ける。 「まあ秋の国に関して一番困るのは、謎めいたところばっかりでどれを聞いても御伽噺みたいだってことなのよね。神域に隣接しているせいか、そもそもこのトーナは言い伝えとか伝説とかが多いのだけれど」 旅程の確認を終えたせいで体を縛る緊張が解けたのか、ヒュートスも肩の力を抜いて苦笑した。 「例えば女神が乗るのは美しい神獣で、林檎を触った蹄が守りの力をくれるとか、林檎を手に入れるために、女神とは別の神の子が鷲に姿を変えて飛んでいくとか。無骨な巨人が愛の女神に恋をしたなんてのもある」 すると、ラピスが顔をぱっと輝かせた。 「そういえば私もお宿ですごく面白いお話をたくさん読んだわ。呪術で動物に変わってしまった王子様が女の子に助けられたり、毒に倒れた美しい少女と勇敢な騎士の話だったり。そういえばどれも……」 「ああその手の話ね。女の子が好きなやつでしょう。どれも最愛の人の愛の力で最後は結ばれる、ってやつ」 「そう!」 寝台の上で、ラピスが両手を布団について身を乗り出した。 「見ず知らずの二人なのに運命的に惹かれ合ったりとか、異形の姿でも優しさや強さにだんだん打ち解けていったりとか……」 「昔話の多くがそういう『愛』のお話なのよね。多分、秋の国を守るのが愛の女神だからそんなのも生まれてくるんでしょ。そういうの、やっぱりラピスも好きなの?」 「もちろん! だって素敵でしょう? そういうお話では剣や何かが使えなくたって、女の子も一番大事な力を持つのよ。それにそんな素敵な男性との出会いってなかなかないじゃない? それだけでうっとりしちゃう」 「そうねえ。現実にはそんな素敵な男性とは滅多にお目にかかれないからね。むしろ自分で自分を守らないと」 頬を紅潮させて興奮気味に話すラピスとは対照的に、アネモスは半眼になり意味ありげな視線をヒュートスとクエルクスの方へ寄越した。 「女性陣の好きそうな談義になったし……邪魔しないでおくよ。明日も早いし」 椅子から立ち上がりながらさりげなくクエルクスと視線を交わし、ヒュートスは部屋に戻ろう、と口を挟めずにいる従者の肩を叩く。就寝を告げて退室すると、閉めた扉に寄りかかってヒュートスは大仰に息を吐いた。 「んなこと言われても、あれだけ腕が立つ女性だとなぁ……おたくの王女様みたいに純粋無垢に御伽噺に憧れるくらいが可愛いと思うんだけどね」 天井を仰いでそう言うと、今度はがっくりと項垂れる。自分より年上の長身男性が情けなく肩を落とす姿は実に気の毒に思うのだが、クエルクスにはかけてやるべき適当な言葉が見つからず、黙って苦笑するしかなかった。 ただ「そんな素敵な男性」を夢見て目を輝かせたラピスの顔を思い出し、陰鬱な気分になるばかりだった。 その後数日も一行は問題なく足を進めた。季節の急変もなく依然として冬が続いたが、粉雪がちらつくことはあっても激しい吹雪になることはなく、馬の足はさほど速度を緩めずに北上を続けた。 国境に近づくにつれ、町から村へと人の住まう土地の規模は小さくなっていき、最後の村を抜ければもう左右に人家も田畑も無くなった。あたり一面が真っ白な色で覆われ、あるはずの道も雪の下になってしまったのか、いまはただ絹のように光る美しい雪原に、蹄の跡が南から北へと線を引いていく。 一行はラピスと二人乗りしたアネモスを先頭にし、クエルクスとヒュートスがその後ろに、最後尾を残りの二人の近衛隊員が守る形で駆けた。 「良かったのでしょうか、アネモスさんにずっとラピスを任せっきりで」 二人乗りではどうしても負担が大きい。クエルクスの体力を温存するためにも、ジノーネを出てからこの方、ずっとアネモスがラピスを自分の馬に乗せて走っていたのだ。 「ああ気にしないで。クエルクスはこのあとがあるんだし、アネモスが好きでやってるんだからさ」 馬が地を蹴る速度は速く、横切る風が耳を冷たく掠っていく。ヒュートスの声も自然と大きくなる。 「それよりクエルクス、あまり追い詰めるなよ」 「え?」 聞き返したクエルクスに、ヒュートスは明るく続ける。 「全部自分で背負おうとするなよって話だよ」 「でも、僕は」 凍てついた空気が肺を支配し、そのまま臓腑を侵食するようだ。 ——一体、何のために自分はここまで来ているのか。 胸の奥が疼く。旅に出てからもう何度目だろう。 クエルクスが口を閉ざして俯いたのに気付いたのか、ヒュートスは冬の青空のように晴れやかに笑った。 「俺達が一緒にいたって、ラピス王女は本当の意味では遠慮してるよ。頼っているのはクエルクスだけなんだ。ラピス王女がお前を信じているのが明らかなんだから、あとやることは一つだろ」 クエルクスが首を傾げると、わからないか、と言いたげなしたり顔がこちらを向いた。 「クエルクス自身がどうしたいか、ってことだよ」 クエルクスは顔を前へ戻した。前を走る馬の背で長い髪が風に靡く。幼い頃から見てきた雌黄色のラピスの髪の色が、突き抜けるような青空に映える。 ——自分が、どうしたいか。 胸の内で、言葉を繰り返す。 「二人ともーっ!」 大声で呼ばれて、クエルクスははっと思考から呼び戻された。アネモスがこちらを振り返って手を振っており、わぁっ、というラピスの驚嘆の声が風に乗ってくる。 「見えてきたよ!」 言われて進行方向の先へ視線をやると、見渡す限り広がっていた雪原の際、線を引いて区切ったような純白の面の上に、見たこともない鮮烈な色彩が空との間を塗り上げている。 目を凝らして見れば、それは一色ではない。赤や黄、橙、茶、一つの季節を象徴するありとあらゆる色が隣り合い、重なり、視覚の中で混ざり合う。 「さぁ、俺たちがついて来られるのもここまでだ」 雪積もる冬と隣り合わせでいて、草木凍ることなく永久の実りが約束された世界。 「秋の国だ」
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