半端者のダンス
第13話 パズルの真ん中

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「適当にくつろいで居てください。お湯沸かしてきます」  子頼さんを座椅子に座らせ、キッチンへ向かう。  コンビニで買ったカップ麺の蓋をあけ、かやくと粉を入れ、沸騰したお湯を入れる。出来上がった蕎麦をテーブルに運び、二人で食べた。  ただのカップ麺でも二人で食べると味わいが違った。満腹感から来るものではない充足感。 「食後にコーヒー淹れますね」  蕎麦が入っていた容器を流し台に持っていき、三角コーナーに残り汁を捨てる。  コーヒーカップを二人分用意する。  さて、僕の趣味が活かされる時が来た。というのはいささか大仰ではあるが、コーヒーには素人なりの自信がある。  やかんに火をかけ、お湯をカップ四杯分沸かし、その間にカップとペーパーフィルターとフィルターフォルダーを準備。この時点でまだ粉は入れず、沸いたお湯をそのまま注ぎフィルターにお湯を浸透させ、カップを温める。カップに入れたお湯を捨て、フィルターに粉を入れる。粉の中心に数滴お湯を垂らし、30秒ほど蒸らす。その後、中心から「の」の字を描く様に少しずつ少しずつお湯を入れていく。粉が膨らんで、お湯が落ちていくと萎んでいく。そこにまた同じようにお湯を注ぐ。粉は呼吸をするように膨らんでは萎んでを繰り返し、コーヒー特有の香ばしい薫りを放つ。その工程を5回ほど繰り返し、丁寧にじっくり淹れていく。  出来上がったコーヒーを子頼さんの前に出す。 「ミルクと砂糖いります?」 「ミルクをください」  うちにはミルクポーションが無いので、牛乳をパックで持って行って注ぐしかなく、その所作はとても武骨であり、先程のコーヒーを淹れているときの優雅さのようなものが打ち消されてしまうようであった。それに折角冷めないように淹れたコーヒーが冷める。今度彼女がいつこの部屋を訪れるかはわからないが、ミルクポーションは買っておくことにした。 「美味しい」  そういって目を見開き僕を見る。僕は嬉しくて頬が緩んでしまう。多分にやにやしている。 「インスタントではないんですね」  味のわかる人で良かった。僕のにやにやは止まらない。 「しまった。ミルクを入れないで味わえば良かったですね。仰ってくれれば入れなかったのに」  そんなに美味しかったのか。誰か僕のにやにやを止めてくれ。 「嬉しそうですね」 「はい」  僕が自分の分を淹れようとキッチンに戻ると、子頼さんはハンガーラックに掛けてあったコートを手に取った。 「お借りしますね」 「あ、お願いします」  スプリングコートのボタンを直してもらうのが目的だったのを完全に忘れていた。  それから二人でお茶を愉しみ、子頼さんは会話の合間に少しずつボタンの修復をしていった。  ボタンの修復が終わるころには0時を過ぎており、さすがに疲れている様子だった。 「お疲れ様です。ありがとうございました」 「いえいえ、そもそも私が壊してしまったので」  子頼さんからコートを受け取り、ハンガーに戻す。  子頼さんは両手で口を隠しながら大きく欠伸をしていた。 「コートも直しましたし、そろそろ帰りますね」 「え。どうやって?」 「あれ?」  しばらくの間、二人は固まってお互い見つめ合っていた。二人の間に大きな疑問符が浮かびあがり、ぐるぐると回りながらどんどんと増殖していく。 「あの、私、どうやらですね。大きく時間を勘違いしていたようです。いえ、そもそも、確かにそうなんですよ。考えてみればそうなんです。そう。居酒屋を出た時点で電車の本数も残り少ないという話をしていたはずなのですよ。それを完全に忘れていたと言いますか。酔っぱらっていました。すみません。あと色々あって、何と言いますか」  取り留めのない言い訳のような謝罪のような言葉が次々に繰り出される。とにかくパニックになっているのは見て取れた。 「僕はてっきりあの時間にうちに来ると言っていたので、泊まるものだと思っていました。子頼さんが嫌でなければ、うちの汚い布団でおやすみください」 「汚いだなんてそんな。それに私は玄関でも構いません」 「お客さんに対してそんなことできませんよ。シャワーはどうします? 着替えとかコンビニで買ってないですよね、多分」 「はい。なので、シャワーはいいです。明日家に帰ってからにします」 「じゃあ、僕、シャワー浴びてきますね」  そういって立ち上がって、パンツと寝巻を持って浴室へ向かう。  彼女はこんなつもりではなかったのだろうか。だとしたら悪い事をしてしまった。もっと時間があるときに家に招待すれば良かった。  そして僕はなんといやらしく浅ましい事か。僕は先程のコンビニで彼女にばれない様にスキンを購入していたのだ。ああ、もう。嫌だ嫌だ。過去に戻りたくないと思ったばかりだが、およそ2時間前に戻れるなら、戻ってその時の自分を殺したい。そして冥途の土産に教えてやるのだ。彼女は純然たる良心の元お前のコートを直しに来ただけで、お前の様に不埒な思いなど微塵も持ち合わせてはおらぬのだと。女神に謝罪しながら死ねと。  心の底から盛大にため息を吐きたいが、子頼さんの手前それもできなかった。  シャワーでも浴びればこの悶々とした気持ちも少しは洗い流せるかと思ったが、どうやらこの悶々は給水率が高いらしく、どんどんと肥大化していった。  髪も顔も体もさっぱりと洗い流したが、心までは洗い流せなかった。もうすでにこの気持ちがいったい何からくるものにより黒ずんでいるのかわからない。彼女と自分との考え方の違いからなのか、彼女と夜を共にすることができない事実からなのか、勘違いから購入してしまったスキンからなのか、恥ずかしいからなのか、苛立たしいからなのか、もどかしいからなのか、全てが当てはまるようで、その全てが的外れのような気もした。  シャワーから戻ると、子頼さんは座椅子で丸くなって寝てしまっていた。  隣の部屋には敷きっぱなしの布団がある。せめてそこへ行って寝てもらわないと風邪をひいてしまう。  腕力には自信がないが、彼女はふわっとしていて軽そうだし、何とか抱きかかえられないだろうか。そう思い、手を伸ばそうとしたとき、彼女は不意に寝返りを打った。その弾みでスカートの裾が捲り上がり、今まで見ることのなかった太ももが露わになった。  白くて柔らかそうな肌はとてつもない吸引力を持っており、たちまち目を奪うどころかその距離さえも一気に縮めていた。近づいた瞬間に強烈に匂い立つ、汗と皮脂の香り。清楚で清廉な聖女のような女性から、生々しい人の匂いがする。ただそれだけで脳の奥がピリピリと痺れた。  触れてみたい。  駅のホームで触れた彼女の手の感触が蘇る。  しっとりと濡れた柔らかい感触。あれほどまでに官能的な肌がこの世界にあるのだろうか。この太ももはどれほどしっとりとしているだろうか。指を食いこませたら、どれほど深く沈むのだろうか。ぎゅっと握って、自分の手の形に赤く染まる太ももを想像する。この太ももの間に顔を埋められたならどれほどに幸せな事か。シャワーで洗い流せなかった悶々とした気持ちもたちどころにその存在を消し、心の黒ずみも綺麗になるのではないだろうか。きっとそうなのではないだろうか。  そんなことを考えていた所為か、いつの間にか鼻息が荒くなっていたらしく、 「ううん」  と子頼さんのくすぐったそうな声がして、びっくりして後ろに跳び上がっていた。  着地はしなやか。  音も立てなかった。  ふう。  と深呼吸をする。  僕は今何をしていた。  いや、何をしようとしていた。  僕の事を信じてこの部屋を訪れた女性。  その信頼を裏切るような真似を、今、しようとしていなかったか。  いや、もうすでにしていただろう。  あんなにも太ももに顔を近づけて。  匂いまで嗅いで。  これを彼女が知ったならどれほどのショックを受けるだろう。  寝ていることを良いことにやりたい放題とは。  これでは空き巣と同じではないか。  これ以上罪を重ねてはいけない。  もうやめよう。  そう思い、声をかける。 「子頼さん」 「んん……」  と返事ではない返事がくる。 「子頼さん、少しだけ起きてください。このままだと風邪ひきますよ」  僕は彼女の手を握って体を起こす。 「ふぁい」  子頼さんの眠そうな声。  僕は彼女を起こし、隣の部屋まで手を引き移動する。  彼女を横にして、布団を掛ける。 「おやすみなさい」  声をかけた先にある寝顔は天使そのものだった。このくそったれな世界にも天使は居たのだ。  その場から立ち上がろうとしたとき、不意に視界が揺れた。  それが子頼さんの腕によるものだと気付いたのは、完全に自分が倒れきった後だった。  自分の顔は彼女のふくよかな胸に埋もれ呼吸もできなかった。  否。  仮に呼吸ができるほどの隙間がそこにあったとしても同じことだ。  呼吸の仕方を忘れるほどに心臓が早鐘を打っていた。  今まで陥ったことのないほどの超高速連打。  ババババババババ!  と連続的に心臓が打ち続ける。  このままでは心臓が壊れる。  体の先の先まで血が行き渡りすぎて爪先が熱い。痛い。  彼女の鼻息が僕のおでこにさらさらと当たり、まるで頭を撫でられているような錯覚に陥る。 「しゅいちさぁん」  ぎゅうっと抱きしめられ、脳みその奥からとてつもない量のアドレナリンが分泌されているのが分かった。 「ありがとう……」  彼女から力がすっと抜け、僕は身を捩って彼女の腕から抜けた。  解放された。  なんだか口惜しい様な、だがまずは助かったという気分だった。  今しがた相手の気持ちをおもんぱかることを心に決めたはずなのに、すぐにまたいやらしい気持ちになってしまう自分が情けなかった。だから勿体無いなどという気持ちにはなってはいけない。そんなものはすぐさま捨ててしまわなければいけない。そうだ。僕は、邪に打ち勝ったのだ。だから助かったのだと思うべきだ。そう自分に言い聞かせ、部屋を後にした。  襖を閉める時ちらりと子頼さんを見る。  こちらの部屋から射し込んだ明りに照らされた子頼さんはやはり天使のままだった。  決して小悪魔などではない。計算により僕を誘って寝たふりをしていたわけではない。彼女は夜の行いを求めていなかったのだ。  だから僕は男として正しい決断をしたのだ。  なぜだか僕はあのまま彼女を求めなかった事を内心酷く後悔しているようであり、ずっと頭の中には言い訳が目まぐるしく回り続けていた。  封の切られたチョコ菓子を見つけ、手に取る。それは溶けかけていた。  塊を口に放り込もうとするが、包装紙にくっついて落ちてこない。口先で包装紙からチョコレートを切り離し、口の中に入れる。溶けかけたチョコレートの強烈な甘味が口の中いっぱいに広がり、頭の奥を痺れさせる。舌先に絡み付くそれを唾液で流して飲み下す。深く息を吐くと鼻からカカオのフレバーが抜けていく。包装紙にくっつき残ったチョコレートを舌先で拭うようにして口の中に入れる。鼻先にその残滓が付くのにも構わず、貪る様にして食べた。  だからだろうか。  歯磨きをした後もずっとチョコレートの甘い匂いが鼻の中に立ち込めたままだった。  先程彼女を座らせていた座椅子に背中を丸めて横になる。掛布団の代わりに子頼さんに直してもらったばかりのトレンチコートを纏って、リモコンで電気を消して、目を閉じる。眠ろう。彼女の残り香とチョコレートの甘い香りを睡眠薬代わりに。  だが、眠ろうにもそれは困難を極めた。  隣の部屋には子頼さん。  心臓はようやく落ち着いてきたが、それでもなおいつもより早いように思える。  体温も高いのか体が膨張したような感覚がある。  目は冴えて暗闇の中ですら物体の輪郭がはっきりわかった。  ダメだ。眠れない。  僕は体を起こし、隣の部屋の襖に手を掛ける。  逡巡ののち襖を開けた。  暗闇の中、彼女が半身を起こした。  メガネの奥の瞳はぼんやりとはしておらず、はっきりと僕の目を見つめ返していた。  彼女はふふふっと笑い掛ける。  もはやそこに言葉は要らなかった。  僕は体を屈ませ彼女を抱きしめ、そのまま布団に押し倒すように彼女を仰向けに寝かせた。  彼女の瞳から聞こえてくる言葉が胸を刺す。「どうして抱きしめたのに逃げて行っちゃったんですか。守一さんが来てくれるのを待っていたのに」さすがにそれは悪い気がして、と、見つめ返す。  僕は自分の腕を曲げて彼女との距離を詰める。  彼女の瞳には期待と不安が入り混じり泳いでいた。ぐるぐると旋回を続ける鯉たちに微笑みかけて、目を閉じ、唇と唇を……。  ――瞼に刺さった日差しによりそれは霧散した。  目を開けると見慣れた天井があった。  いつの間に眠りに落ちていたのか。  バキバキに固まった体を伸ばしながら、少しずつ体を起こしていく。  時計に目をやると13時を過ぎていた。  昨日はいろいろあったから疲れていたのか。寝すぎて頭が痛い。  しばらくの間倦怠感に身を任せてだらりとしていた。そうして二度寝しそうになり、ふと気付く。  この部屋のどこからも物音がしない。  子頼さんはまだ寝ているのだろうか。  起き上がったところで、自分の体から掛布団が落ちた。子頼さんが掛けてくれたものだろう。ということは、もう彼女は居ないのか。そういう想像に行き着き、襖を開けるとやはりそこには綺麗に折りたたまれた布団が一つあるだけだった。  キッチンのテーブルに目をやると、何やら見慣れない物が置かれていた。  テーブルには卵焼きが一つ。ラップを掛けられて鎮座していた。その下にメモ用紙が挟まっている。  メモには丁寧な文字でこう書かれていた。 『おはようございます。昨日は泊めていただきありがとうございました。それなのに先に寝てしまって申し訳ありません。今朝、起こそうと思ったのですが、お疲れの様だったので起こしませんでした。何かお礼にと卵焼きを作りました。良かったら食べてください。それに伴い冷蔵庫の中を勝手に開けてしまいました。更に卵も使わせていただきました。申し訳ありません。挨拶もなしに出ていくのは失礼だと思いましたが、挨拶の為だけに守一さんを起こすのもはばかられましたので出ていくことにしました。お邪魔しました。では良い一日を』  字も丁寧なら文章も丁寧な人だ。  しかしながら卵焼き作っているのに物音で目を覚まさなかったのか。僕は。  卵焼きを電子レンジで温め、昨日買ったパンと一緒に食べた。  味は少し甘めで誰が食べても文句の出ない味付けだった。少量の砂糖と出汁が殆どの味の方針を決めており、微量の醤油から放たれる香ばしい匂いが良いアクセントになっている。隠し味に胡椒や七味、山椒などを入れるなどは一切せず、スタンダードを貫き通した珠玉の無個性。ザ・普通。だがそんな誰にでも作れそうな味だからこそ誰にも真似できない。真ん中の真ん中のど真ん中から少しでもズレればそこには大規模な違和感が生じる。一切のズレを許さないインパクトポイント。一番ウッドで小さなゴルフボールの芯を捉えるのはプロゴルファーでも難しいとされるが、それをいとも簡単にキャディーさんがやってのけたとでもいう感覚だろうか。彼女はプロの料理人ではない。毎日副業で小説を書き続けるオフィスワーカーである。そんな女性が作り上げた金色に輝く美しい素朴。いったいどれだけの言葉を尽くしてもこの感動は言い表せないだろう。  ごちそうさまでした。  彼女にお礼のメールを送ろうとしてはたと気付く。  まだ僕たちはお互いの連絡先すら知り得ていない。この一点においてだけ見るともはや友達同士ですらない。そもそも順番がおかしいのだ。バイト初日で声をかけ、二日目にはご飯に誘い、一週間以内に手を繋ぎ、彼女を家に上げ、お泊り。これは大前提子頼さんの恋人になるとしての話だが、普通は声をかけ、お互いの連絡先を交換して、しばらく交信が続いたのち食事に誘い、デートに誘い、何度かデートをしたうえで告白をし、お互いが恋人であるという認識を持ったうえで手を繋いで、キスをして、家に上げ、夜の営みへと興じるのだ。  そこまで冷静に考えて自分の頭から血の気が引いていくのがわかった。  危なかった。  昨日は本当に危なかった。  僕はお互いの距離感を完全に見失っていた。  確かに話は物凄く合うし、一緒に居て楽しいし、卵焼きは美味い。だがそれは全部こっちの都合で、向こうは違うかもしれない。  あまりに気が合う所為で見紛っている。事の本質。彼女は手を繋いでくれと言ったが、それは火倉への当て付けでそれ以上も以下もないのだとしたら。彼女が求めているのが恋人としての僕ではなく、話し相手としての僕であるとしたら。全ては僕の勘違いであるのか。  恥ずかしさのあまり声にならない声を上げながら、同じところをぐるぐると歩き続け、ピタッと止まる。  昨日の子頼さんの吐露。苛立ち。物憂げな表情。僕の心臓を穿つメガネ越しの瞳。  刹那。  僕の目の前を特急電車が通り過ぎていく。  やかましい風。  景色を巻き込む光。  髪を押さえる彼女。  白詰草の笑顔。  僕は君の事が好きだ。  子頼さんが僕をどう思っていても不変のものがあった。  どんなに飛び石的な距離の詰め方をしても確かな思いがある。  これは幸せなことだ。  パズルの真ん中からピースを集め始めた。まだ枠も用意されていないのに。ただそれだけだ。真ん中から始めても最後までピースを間違えずに嵌めきればいいのだ。いや間違えてもいい。角度を変えて、場所を変えて、嵌まる所に嵌まるまで試し続ければいい。外枠が出来ていないのなら、完成してから上から被せたっていい。パズルの完成が二人の愛の完成ならば、プロポーズの言葉は「はじめまして」かもしれない。おかしな人たちだと笑われるだろう。でもそれでいい。僕たちはお互いを笑わない。外野にどれだけ笑われたって一向にお構い無しなのだ。  自分は自分で他人は他人。そんな当たり前の事に今更気付いて、何もかも勘違いかも知れなかったと焦る自分を思い出して、急に可笑しくなってふふふと笑った。

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