アルヒのシンギュラリティ
ローグ & プロローグ

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 男は逃げていた。耳障りなサイレンが鳴り響き、薄暗い廊下は非常事態を知らせる赤色灯が明滅していた。迷路のように入り組んだ建物の中を、息を切らし駆け抜けていく。床には等間隔で、小さな「Q」の字が刻印されている。一つ、二つ……五つ目を右へ。男はこの建物の構造を熟知しているのだ。 ――あっちに逃げたぞ!  すぐ近くで怒気を含んだ声が響いて、男は急いでそばにあった扉に飛び込んだ。警備員たちのたてるけたたましい足音が、扉の向こうで過ぎて行った。  しゅう、と空気の出る音がして、男の腰についたセンサー妨害装置から、科学物質の匂いが立ち込めた。 「……これまでか」  男は壁にもたれかかって座り込んだ。老いた自分の体力を考えて、さすがに諦めなければいけないことを悟った。もう走るのも限界だ。建物の外まで逃げ切ることは難しい。装置の効果もあとわずかで切れる。そうなれば、居場所はすぐにバレるだろう。 「せめてこれだけは……どこかに」  白衣の下に隠した、丸い膨らみに手を当てた。好奇心の果てにあったものの意味を、これまで何度も考えてきた。この街も、この生活も、すべては人間の終わりなき願いの果てにあったものではなかったのか。たとえ違法と呼ばれても……もしものときのためにこれは必要だ。  ふと気配を感じて、男は顔を上げた。部屋はしんと静まり返っていて、誰もいない。倉庫のように棚が並んでおり、その上にはいくつものケースが陳列されている。壁沿いに設置された透明なガラスケースの中には、ネジのような細かい部品や、丸い大きなパーツなど、何かを製造するための金属が並べられている。淀んだ空気の中で、微かに錆の匂いがした。 「この部屋は……そうか」  男は立ち上がって、部屋の奥へと歩き出した。  棚の向こうは広い空間だった。「CX-C4」と書かれたベルトコンベアがあり、人間が入れそうもない狭い通路へ続いている。別の作業場へとつながっているのだ。  男は懐からそっと丸い塊を取り出し、近くにあるガラスケースの中の、それに似た形の部品と交換した。 「これで……ひとまず大丈夫だ」  腰のあたりから電子音が響く。センサー妨害装置の効果が切れたのだ。 ――こっちだ! もう逃げられないぞ! ホープ!  扉の開く音がして、金属的な足音が部屋に響き渡った。

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