アルヒのシンギュラリティ
その街には、人間とロボットが暮らしている - 1

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 目の前で、熱帯魚が三匹泳いでいる。それぞれ真っ赤な側線が体に描かれていて、金色の尾ひれが風を受けた旗のように波立っている。空中をしばらく自由に泳いだあと、まるで空気に溶けていくように、消えた。この街では珍しくない、ホログラムだ。  アルヒはホログラムが好きだった。それに加え、魚というものが珍しくて目が離せなかった。こんな風に水中を泳ぐ生き物が、ずっと昔はいたらしい。その観賞用のホログラムのそばでは、案内係のロボットたちが、慇懃な佇まいで垂直に起立している。 「何そんなところでぼーっとしてるのよ?」  声と同時に、不意に左手が握られた。  その手は温かかった。そして同時に、驚きや照れ、喜びを感じながらアルヒはそう思った。 「ほら、あの塔の上からなら、ヘブンが見えるかもしれないわ」  熱帯魚を見ていたアルヒを窓辺に引っ張ってきて、サシャはずっと遠くにそびえる、芥子色の細長い建物を指差した。  この街で最も見晴らしのいい場所を、二人は探していたのだ。その一つ目の結論が、二人が今いる、街の南側のセントポリオ地区にある、セントケットビルという商業施設だった。地上四十階の太っちょのロケットのような形をしたビルは、その見た目のユニークさから、この地区のランドマークとなっている。中には数え切れないほどのショッピングストアが入っていて、すべての店を見て回るには何日もかかるだろう。  二人がいる最上階のフロアは、景色の良さを売りにしたレストランが立ち並んでいる。女性が歌う、どこかで聞いたことのあるポップソングが流れていた。 ――もしこの世界がすべて嘘だとしたら……  そんな歌詞が、心地良いリズムに乗せて歌い上げられている。 「ここより見晴らしのいい場所と言えば、もうあそこしかないわ」  サシャに手を引かれ、透明なガラスを覗き込んだアルヒは、遠くの塔よりも、足元いっぱいに広がったサンクラウドの街に目を引かれた。 「……綺麗な街だ」  アルヒは小さく呟いた。少年は、こんな風に自分の街を見下ろすのは初めてだった。  この街は綺麗だ。そして、街と呼ぶには広大過ぎる。  見下ろした景色の中には、所狭しと流線型のビルディングが並んでいた。その隙間を縫うように、筒状の形をした「チューブ」と呼ばれる高速道路が、縦横無尽に連なっている。チューブの中は「フュリー」という、完全に自動化された電気自動車が走っているのが見える。  白い柱のような細長い装置が等間隔で建っているのも、この街の景色の特徴だ。建物の五階ほどの高さのあるその柱には、それぞれ番号が振られていて、それがその地域の住所を示す役割を担っている。それに加え、あの白い柱自体がこの街の科学の結晶でもあった。  そんな人工物ばかりのこの街が、それでも一目で美しいと思えるのには、その自然の豊かさが理由だった。建物や道路の合間には、必ず豊かな緑が生い茂っており、街の端の方には透き通った湖も見える。  過去の人間が幾度も想像し、そして諦めた、一つの未来の形。  ここで暮らす人々の心は満たされている。  アルヒは、この街の外に砂漠が広がっているという事実を、少し疑ってみたくもなるのだった。 「綺麗ね。それには私も同意よ。だけど、今はあの塔の話をしているの。あそこに侵入しよう」  わかってる? と言うようにサシャはアルヒの顔を覗き込んだ。少女の瞳は朝露に反射した太陽の光のような、優しい輝きを内包していた。彼女は滑らかな布で織られたワンピースを纏い、腰のあたりに淡茶色のベルトを巻いている。さっきまで装着していた薄紅のマントは、今は動きやすいように、首に装着したリングの中に収納されていた。丁寧に三つ編みにされた黒い二つの髪の束が、頭から元気に飛び出している。  アルヒは顔を赤くして慌てて目をそらし、ガラスの向こうに目をやった。景色は素晴らしく綺麗だが、ここからでもヘブンは見えない。  サシャが指差した北の方角には、クオリー地区と呼ばれる、大人たちが働きに行く中心街がある。その中でも一際飛び抜けて高いあの芥子色の塔は、このサンクラウドの街で最も高い建物として有名である。この街のどこからでも見えるようにと、あんなに高く作られたらしい。 「……『知の塔』は無理だって。すぐに監視ロボに見つかって終わりだよ」  アルヒは気だるそうな、少し演技がかった仕草で、窓にもたれるように背を向けた。  少年はいつも澄ました顔をしている。本人にそのつもりがなくともそんな風に見えるのは、おそらくその目が理由だろう。彼の丸い瞳には、いつもどこか遠くを見ているような奥行きがあった。その左目の下には、小さなほくろが斜めに二つ並んでいる。短く切られた黒い髪の毛が、目の上で右側に流れていた。  アルヒが気にしている監視ロボは、街の中でもパトロールしている姿を見かけることがある。彼らは治安を守るために、人間の代わりに働いているのだ。  この街はどんなことでもロボットが助けてくれる。買い物も仕事も、学校の勉強もだ。  そんなすべてのロボットを作っているのは、この街のインフラを担っているクオリー社だ。サンクラウドで一番大きく、権威のある会社である。知の塔と呼ばれるあの塔は、そんなクオリー社の工場内にそびえ立っている。だから、子どもの僕らが考えるよりもずっとセキュリティーは厳重だろう、とアルヒは思う。監視ロボなんて数え切れないほどいるはずだ。 「無理無理って、アルヒはいっつもそう。あの暴力ジョーンズと言い訳ボウに馬鹿にされて悔しくないの?」  名前を聞くだけで、ため息をつきそうになる。特にジョーンズは、クラスのいじめっ子としてみんなから恐れられている。気に入らないことがあれば、すぐに腕力で解決しようとするのだ。それに彼の父はこの街の偉い人物なので、先生すら何も言えないのである。 「悔しいけど……。わかった。一旦落ち着こう。……何か方法を考えるよ」   サシャは一度言い出したら簡単に引き下がらないことを、アルヒは知っている。今することは、彼女を説得するよりも、その方法を考えることなのだ。 「方法は、いつまでに思いつくのよ?」 「一ヶ月くらい……」 「遅い! 約束に間に合わないわ。早く考えて!」  サシャの声はよく通る。ショッピングに来ていた二足歩行型のロボットが、大きな買い物袋を手にさげながら、何事かと振り向いてこちらを見ている。  どんなに賢い大人でも、ましてやロボットでもあの工場に侵入するのは難しいだろう。そんなこと、いくら九歳の二人でもわかっている。しかし、そう言わなきゃいけないほどにサシャは腹を立てていた。  そして同時に、その怒りをアルヒにぶつけることは、サシャの彼に対する信頼の表れでもあった。どんな無理難題をふっかけても、きっとその明晰な頭脳で解決してくれると。  アルヒは目の下のほくろのあたりを手で撫でてから、考えるように手を組んだ。そしてもう一度振り返り、真剣な眼差しで、遠くにそびえ立つ塔を見つめた。  まだ九歳。大人たちから見ると、自分たちは何もできない子どもに過ぎないかもしれない。しかしサシャは、アルヒがたまに見せるそうした表情に、他の子どもにはない不思議な魅力を感じていた。彼女自身、うまく言葉には言い表せられないが、おそらくそれは父親譲りのものなのだと思っている。 「……全く、ロボットを大切にしないなんて、信じられないわ」  そう言って、サシャはもうここには用はないと言わんばかりに、大股でエレベーターに向かって行った。ここにのぼってくるときにも乗った、太っちょのロケットの外側に取り付けられたエレベーターは、床と壁がガラス張りになっている。落ちてしまいそうなスリルがあって、子どもだけじゃなく、大人にも人気なのだ。 「待ってよ。フュリーに乗って帰るよね?」 「いい。ちょっと歩きたいの」  曲がった事が大嫌い。嘘が大嫌い。好きな言葉は、正義。学年が変わるごとに、すぐに委員長に立候補する。サシャはそんな女の子だった。 「ロビンに連絡しておかないと……」  アルヒは左手に巻かれた、薄い腕時計型の装置を操作した。 「早く。行くよ」  サシャは立ち止まらずに歩き続ける。  案内係のロボットの一人が、サシャの姿を見て、エレベーターのスイッチを押した。  アルヒは、いつもこのおてんば娘に振り回されてばかりだった。

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