アルヒのシンギュラリティ
その街には、太陽と雲がある - 2

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 アルヒはサシャとヘブンの見える場所を探し、セントケットで知の塔を眺めたあと、結局一緒にフュリーに乗って、それぞれの家に帰った。  サンクラウドの東側にあるレジナス地区はいわゆる住宅地区で、いくつものマンションが密集している。その中でも一際高いマンションの最上階が、アルヒの家だった。アルヒは父とお手伝いロボのロビンの三人で暮らしている。 「ただいまー」 「坊っちゃん、お帰りなさい」  アルヒが帰ると、玄関でロビンが迎えてくれた。  ロビンは正面から見ると、台形の体の上に楕円の顔を貼り付けたようなフォルムをしている。体からは二本の手が伸びていて、その手にはちゃんと指もある。足の役割を担っているのは、台形の体の下に二つ付いた、小さなキャタピラである。歩くときには特徴的な音が鳴る。  CX-A2というこの少し旧型のロボットは、この高級感のあるマンションの中では、型の古いロボットに見えるかもしれない。それでも街に出ると、彼と同じ型のロボットはまだたくさん歩いている。  ロビンは十年前、アルヒの父スタンと母メアリが結婚した年にこの家にやって来た。幼い頃に母を亡くしたアルヒにとって、生まれたときから一緒に暮らしているロビンは、ロボットと言えど、もはや大切な家族の一人だ。 「今日のテストはどうでしたか?」  リビングに入って、旧型のロボット独特の直線的な動きで移動しながら、ロビンは言った。 「満点だったよ」 「素晴らしい! さすが坊っちゃん、お父様に似て優秀です」  ロビンの口調は人間の年寄りみたいだと、アルヒはいつも思う。  リビングのテレビの画面には、アルヒが幼い頃に撮られた家族写真が映されていた。きっとロビンが設定したのだろう。写真はセントケットビルの前で、父と母とロビン、そして母の腕に抱かれた、小さなアルヒが写っている。写真は少しすると、今度は街の端にある湖の写真に切り替わった。 「……お父さん、今日ほんとに帰ってくるよね?」 「はい。夜に帰ってくる予定になっていますよ」 「……わかった」  父のスタンは、ほとんど家に帰ってくることがなかった。ロビンがいるので家のことは困らないが、アルヒがもっと幼い頃は、父がいないことに寂しさを感じていた。  アルヒは、父が自分には興味がないのだと思っている。表面的には優しく接してくれることもあるけれど、もう一歩、心に踏み込んだ話をしたことがなかった。自分の将来の夢を訊かれたことも、父の過去の話も聞いたことも、一度もないのだ。  素晴らしい父を持って羨ましいと周りに言われる一方で、実際は息子である自分も、父のことをあまり知らない。  天才少年だと周りから持てはやされても、アルヒは唯一の人間の家族である父に、もっと自分のことを認めてもらいたかった。最初にロボ工学の勉強に興味を持ったきっかけも、父の研究分野であるそれに少しでも詳しくなることで、褒めてもらえるのではないかと思ったからだった。  父とはずっとそんな関係であるはずなのに、なぜかアルヒの曖昧な記憶の中では、優しい笑顔を自分に向ける彼の面影がちらつく。自分の頭を撫でる、父の微笑み。果たしてその映像がもう、現実だったのか夢の産物なのかもわからない。 「坊ちゃん、何か飲み物でも入れましょうか? 今夜は新鮮なフラワーヒルの野菜を煮込んだお料理ですよ。今日はお買い物にも行ってきましたから」  ロビンが嬉しそうに言った。そういえば家に帰ったときから、美味しそうな匂いがしているなと思っていたのだった。  この街の食べ物は、多くがフラワーヒルと呼ばれる西側の地区で作られている。広大な土地で徹底管理のもと作られた農産物と畜産物が、他の地区の小売店に届けられる仕組みだ。  フラワーヒルで働いているのはほとんどがロボットであるが、そうした仕事に興味のある人間も、ロボットと一緒に労働することができる。人間にとってやりがいを持つことは、生きるにおいて大切なことだ。フラワーヒルの農園では、たくさんの人間がロボットと同じように労働し、コミュニケーションをとって暮らしている。 「うーん。でも、とりあえず今はいらないや。部屋で勉強してくる」  少し残念そうにしているロビンを残し、アルヒはリビングから階段をのぼって、自分の部屋に向かった。部屋に入ると、すぐにベッドの横にカバンを置いた。  アルヒの部屋には大きめのベッドや勉強机、薄いテレビやソファなどが十分な余裕を持って配置されていた。壁際の棚には、過去から最新までの様々な型のロボットの模型が整頓されて並べられている。その横には、アルヒが去年の自由研究で作った、実際に飛ばすことのできる、プロペラのついた手のひらサイズの人形があった。ロビンと同じデザインで作られたその人形は、自分で障害物を避けて飛ぶことができる優れもので、学校でも賞をもらったのだ。  部屋の大きな窓からベランダに出れば、住宅街を見下ろせる。この時間は右手側に雲の合間から日が沈んでいくのが見える。オレンジの光が大小様々な形のマンションを、同じカラートーンに染め上げていた。  アルヒは窓際の勉強机に座って、その上に手のひらを置いた。木目のパターンを映し出していた画面が一瞬だけブラックアウトし、いくつかのアイコンが浮かび上がる。学校にあるものと同じように、角度を変えることのできるテーブル型のコンピューターである。特にアルヒの部屋にあるコンピューターは、家庭用としては抜群に性能がいいのだ。 「さてと」  約束どおり、一ヶ月以内に工場に侵入する方法を考えなくてはいけない。 「クオリー工場の地図を出して」  画面上の一つのアイコンに触れてから、アルヒが机に向かって声をかけると、画面に工場周辺の簡易的な地図が映し出された。この街のことは、クオリー社の人工知能が管理しているデータベースにつなげば、誰でも最新の情報を得ることができる。どこかに新しいレストランができたことや、今の時期の旬の食べ物だってそうだ。 「立体で見せて」  そう言うと、画面から工場が飛び出すようにアルヒの目の前に現れた。目的の塔が一つだけ突出している。アルヒはその立体を手のひらで触り、回転させる。 「どこから入れるかな……」  アルヒは腕を組んで思考を巡らせる。何か方法はないだろうか。絶対にバレずに、侵入して、帰ってくる方法。外観からだけでは、センサーの位置や監視ロボットの位置まではわからない。  下の玄関から音がして、考えにふけっていたアルヒはふと我に帰った。予定よりも早く父が帰って来たのかもしれない。アルヒは急いで階段を降りていった。  アルヒが壁の向こうを覗き込むと、父はリビングでロビンと何かを話しているようだった。研究者らしい、薄く汚れた白衣を羽織っていて、長身のそのシルエットによく似合っている。豊かに黒い口髭と髪は、今日も綺麗に整っていた。どんなに忙しくても、父の身だしなみが崩れているのをアルヒは見たことがなかった。それでも顔に、疲れによる陰りが微かに見えるのは、今日も長い時間仕事をしていたからだろう。 「……お父さん、おかえり」  アルヒはおそるおそる声をかけた。 「アルヒか」  スタンはこちらを見もせずに、ゆっくりと低い声で言った。 「……今日ロボ工学のテストで満点とったよ。クラスで僕だけだった。平均は三十点のテストだったんだよ」  父はしばらく黙っていた。何か考え事をしているようだった。 「そうか……偉いな」 「あと、今日は新鮮なフラワーヒルの野菜煮込みがあるって……ロビンが……」  スタンはアルヒの声が聞こえなかったように、そのまま自分の部屋へと入っていった。ロビンは困ったような顔をしている。  それが、父との二ヶ月ぶりの会話だった。

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