物件
9.物件(沈黙)

   彼氏ができたことを伝えると、まともそう(付き合ってもいいかな)と思える人たちとは疎遠になった。まあ、そうだよなaと思う。私は特別な理由もなく別のマッチングアプリに登録をして、彼氏がいるということをプロフィールに書いて顔が絶妙に隠れてる写真を選択して、加工し、プロフィール写真とした。それは新しいスマホゲームをダウンロードして、登録したのと何も変わらないんじゃないかと思う。  登録した新しいアプリでも男たちからのいいねや、会いたいという言葉をちょくちょくもらうことはできたけれど、前ほど色んな人に会いたくも、やりたくもなくなってしまっていることに気がつく。  今、私がたっくんと寝てるのはたぶん、カツラくんとの代償行為ですらないと思う。  どちらかと言うとそれは惰性であって、そしてより慣性により近いものだ。  行き場を見失った私の気持ちの振り子は、虚空に宙吊りになってしまったようになる。  たっくんのことは好ましく思っているけれど、私にとってそれは人生のある一時に過ぎないということが私には分かっている。  だってそれは、私が知っている感情だったり今までの経験をパッチワークのように組み合わせていけば解決できてしまうようなものだと思うから。  私はたっくんとの関係はぬるま湯のようだ。心地よくいられることを知っている。少し寂しくなるような気もしなくはないけれど、それは私の根本を揺さぶることはないことを私は知っている。  私とカツラくんとは週に一回は会う。互いの家に泊まることもある。  私はカツラくんの手を握り、カツラくんに抱きしめられる。触れるだけのキスをする。私は筋力トレーニングで肥大化した筋肉ではなく、実用的に鍛えられた筋肉に薄く包まれている活動的な体に欲情する。  カツラくんはそんな私のことを気づいているのかいないのか、すっと体を離してしまう。どうして? 私はそれすら言えなくなっている。  その代わりなのか、私たちはずっと昔のことを話している。時にそれはとても大切なことのようにも思えるし、部屋を漂う埃のように何の意味もないようなことにも思える。  私たちはどんな子どもだったのか。私たちはどんな親に育てられたのか。  子どもの頃は野菜があんなにも苦手だったのに、苦手だった理由すらうまく思い出せなくなってしまっているのはなぜだったのか。  私は私自身がビッチだったことは話せないし、カツラくんも過去の私の恋愛については追求してこない。  それよりもどのようにして私たちという人格や人となりといったようなものが形成されたのか、私たちがどんなことを経験して、この年齢までなんとか生きてきたのか。というようなことについて、とりとめもない話を私たちは続けている。  前日、たっくんと寝ていたからなのか、その日の私の性的な欲求はなくなっていた。カツラくんの挨拶のようなハグでも、台風が過ぎた空のように穏やかな気持ちで心地よく話をすることができていた。  私はカツラくんに抱き寄せられて、背中から抱きしめられるような形になっていた。だからカツラくんがどんな表情をして話していたのかはわからない。  その話は淡々としていたけど、声のトーンは一定で心地がよかった。気を抜いてしまえば眠りに落ちてしまいそうな穏やかな声だった。  俺はばあちゃんに育てられたんだよね。母親の方のばあちゃんに。この間死んでしまったばあちゃんに。  父親と母親はそれぞれに仲が悪くて、物心ついたときには喧嘩している二人の姿しか覚えていない。父親も母親も当初は愛し合っていたはずだから結婚したんだろう? でもすぐにそうじゃなくなってしまったようだ、二人は。  詳しいことは聞かされてないし、興味もないから知らないんだけど、どうやら二人は別々に暮らすことを選んで、俺は母方のばあちゃんに育てられることになった。  はじめは少しだけの「繋ぎ」みたいな感じだったんだけど、結局小学校低学年から中学校卒業までばあちゃんのところに住んでいた。  だからかな。世間で言われている仲のいい両親とか家族なんてものは俺にはどうしてもぴんとこなかった。二人とも罪悪感なのか分からないけど、時々俺と会うととても優しかった。  欲しい物ってあまりなかったけど、色々買ってくれたような気がする。ゲームとか、服とか、靴とかまあそんなものだよ。  二人はさ、母親も含めてそれなり稼げる仕事してたから、自由にそれぞれ暮らせていたんだと思う。ばあちゃんが俺の面倒を見ていたし。この年齢になったから色んな事情みたいなものもあったんだろうと想像はするけど、そんなの子どもにとっては何も関係ないよな。  海の近くの家だった。  ばあちゃんの家には俺の両親はあまり寄り付かなかったけど、色んな人達が遊びに来ていたよ。のんびりしていた時代、だったんだろうな。ばあちゃんの家はずっと鍵とか開け放していて、色んな人が出入りしていた。近くに住んでる親戚の人たちだけじゃなくて近所の漁師の人とか、お店の人とか、ほんとに色々だったけど俺のことはみんな可愛がってくれたよ。泳ぎに行く時に連れて行ってもらったり、キャッチボールの相手をしてくれたりとかそんな感じ。東京とかだとありえないよな。でも、そのときはそれが当たり前だって思ってたんだよ。    誰かがどこかで相手をしてくれるって。親があんまりいなくても、俺はこうやって色んな人がいてくれるからあんまりさみしくないやって。  小さいときの俺は強かったなって思う。今思えば、だけど。  俺その時からあまり日焼けしないタイプだったんだよ。日に当たるとやけどみたいになって赤くなってしまう。だから結構からかわれたよ。都会の出身のやつは日焼けもできないのかって。  俺は反発とかするよりもただ憧れていた。筋骨隆々とした日焼けしていた漁師の兄ちゃんとかおじさんは本当に格好良かった。あんなふうになりたいってずっと思っていた。でもなれなかったんだよな。俺は、あんなふうには。  私は黙って聞いていた。カツラくんの「あんなふうには」がとても耳に残った。カツラくんは筋肉質でとても均整の取れた体をしているのにどうして「あんなふう」じゃないんだろうと思った。漁師の男っぽい感じなんかよりも、カツラくんのほうが私には魅力的に感じるのに。  私が子供の頃に憧れていた人のこととかを思い返してみたけれど、小さい子供の頃の憧れについてはすっかり忘れてしまっている。  その対象はたぶん、子供向けのアニメーションだったり、キャラクターだったような気もするけれど、そんなときのことを覚えてなんかいられないな、なんてことを思う。  こんなに昔のことを話してくれる人はカツラくんが初めてだった。  というか話す素振りさえみせない人ばかりだった。  今まで私が考えもしなかったことに、カツラくんは悩んでいたり、私が全然気にしたことがなかったということを指摘された時に素っ頓狂な顔をすることに対して「それが香織ちゃんのいいところだね」って、くしゃっとした赤ちゃんみたいな笑顔になるカツラくんはとってもかわいい。私がついこないだまで思い出しもしなかった昔からの色々なことを思い出しているのもカツラくんの影響だ。それはいいことなのか悪いことなのかはわからない。  ただ、私がこうやってここにいるのは、いろんなことが積み重なってきた結果なんだ。時々私たちはその積み重なったものを捨ててしまいたくなってしまう。そして実際に捨ててしまったように感じることがある。  私たちはその捨て去るという事実よりも、捨て去るという行動を選んだそのことによって、内面が決定的に変わってしまい、環境そのものがついてくるのだなんてことに気がついたりもする。  でも、気づいたからといって、こんなことを考えることに意味があるのかな?  考えることこそが意味がないことじゃないのかな?  考えたから、気がついたからといって、その気がついたという事実そのものがターニングポイントみたいなものになって、私はどこかに進めるのだろうか……。  意味なんか考えないように、この世界の不思議みたいなものに囚われてしまって動けなくなってしまわないように、私はアプリを始めた。  実際に私は誰かと出会い続けて、時々不快な思いをしつつも、好きだと思えるような人と付き合い始めたというのに。  好きな人といることがこんな気持ちを引き起こすものであるとすれば、私はこの人と一緒にいる意味なんかないのかもしれない。  一緒にいたほうが悪い方向に進んでいくことでしかないなんて嫌だ。  私は幸せになりたいと思う。  私にとっての幸せは私が楽しくいられることでないければならないと思う。 「ねえ、カツラくん、私のこと本当に好き?」 「好きだよ。当たり前じゃないか。だからこうやって一緒にいるんだよ」 「じゃあなんで、セックスしないの? 普通はするよ」 「セックス」  そう言うとカツラくんはあまりに意外なような顔をした。 「香織ちゃんはそういうのとかしなくても大丈夫な人だと思ってた。だって今まで何も言わなかったから」  言わないんじゃなくて、言えなかったんだよ。とは言えなかった。 「私が平気そうに見えた?」 「平気とかそうじゃないとか、そもそもわからなかったな。ごめん。これからはするようにするよ」 「するようにする? したいとか思わないの? 付き合っている人とはしたいでしょう? 普通」 「そうなのかな……うん、そうだよね。したいよね。ごめん」 「そういうことじゃなくて、謝るとか多分違うことだと思うよ? 私のこと好きだって言ってくれたでしょ?」 「うん」 「じゃあなんでしたいと思わないの?」 「したいと思わないなんて思ったことないよ」 「じゃあどうして手を出してこないの?」 「そんな怖い顔して言われても……困るよ」  私たちはそれからしばらく黙り込んでしまって、同じベッドだったけれどできる限りの距離をとって背を向けて横になっていた。  私は静かに声を出さずに泣いていた。カツラくんには絶対に気がついてほしくなかったから。私はいつの間にか寝てしまっていた。  変な夢を見た。  ふわふわとした雲の上にいるような感覚が薄い膜のように私の体全体を覆っていた。しっかりと地面を踏みしめることができるにもかかわらず恐る恐る足元を確かめなければ歩みを進めることができない。  ちゃんとバランスをとって気をつけて歩いているのに、歩みを進めるたびに私は転びそうになってしまう。足に引っかかるような障害物みたいなものはないというのに。  頭の上はできの悪い紙飛行機にプロペラが乱暴にくっつけてあるようなものがパタパタという音を立てながら飛んでいる。駅前の広間にたむろしている鳩の群れが一斉に飛び立っているみたいだと私は思う。  その場所に私は来たことがあると思っていて、そしてそれは一人で来たのではなくて誰かと一緒だったはずだった。私はその人のことをどうしても思い出せなくて苦しい気持ちになってしまう。  ふわふわとした雲の上にいるように感じ、世界の重力が軽くなったように思う。それは心地の良いことだった。だからそれが誰かもうどうでもいいじゃないか、思い出さなくても気持ちいいんだから仕方ないようなそんな気もしている。  そこには泉があったり噴水があったりする。水は勢いよく滾々と湧き出ていて、水蒸気がもうもうと漂っている。視界はあまり開けていない。  静かに忍び込んでくるような、なんとも形容し難いけれど、とても心地よい香りのする風が吹いてくる。どこかで嗅いだことのある花のような香り、私は必ず知っているはずなのに思い出せないそんな香り。    私はできる限りその香りを吸い込もうとする。でも、私はどんなに吸い込んでも物足りないと思う。  もっと。と私は思う。もっと吸い込み続けなければと私は思う。私は咳き込んでしまう。息ができないくらいに激しく咳き込みながら、その風を私は吸い込んでる。  止められない。吸い込み続けなければと思う。苦しい。と思う。それでも、私は。  私は目覚めた。午前四時三十分。外はまだ暗く、朝の訪れをカーテンの隙間からも感じることはできない。  しん、と静まり返った気配に私の世界は包まれている。こんなに静かだったっけな。私は寝起きの不明瞭な頭で思う。  カツラくんの寝息もほとんど聞こえてこない。枕元にあったスマホは充電していなくて、バッテリーの残量は二十五%ほどだ。  私は充電をしようと充電器にスマホを接続する。  スマホの画面が明るくなり、待ち構えていたとばかりにバッテリーのアイコンがアニメーションする。アニメーションは旺盛な食欲の赤子が哺乳瓶からミルクを吸っているようだと思う。しばらく規則的なその動きを意味もなく眺める。    そういえば私はとても悲しい気持ちだったんだ。  私は新しく登録したマッチングアプリを久しぶりに開いた。適当に何人かの人に返事をする。特にプロフィールを読み込んだりもしない。返事がきてから読めばいい。  カツラくんは相変わらず死んだように眠っている。なんとなくだけどカツラくんはカツラくんの事情があるのだろうと思う。でも、私はカツラくんの事情をこのまま受け止め続けることができるのだろうか?  こんな時間なのに、男の一人からすぐ返事が来る。私は「突然かもしれませんが、よかったら今日会えませんか?」と書く。  私は幸せになってやる。そう思う。  ふとスマホから目を話すと、カツラくんは起きていてうつ伏せになった体勢のままで私を見ている。  私は急に怖くなる。私がしていたことをカツラくんにすべて見透かされているような気がしてしまう。  「俺も幸せになりたいんだ。口癖みたいに香織ちゃんが言っているように」  気が付かなかった。  「そんな口癖あった? 私はそんなこと、言ってるつもりはなかったんだけど」  カツラくんは微動だにせずに少し黙った。私はカツラくんの次の言葉を待っている。

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