物件
8.物件(香織2)

 私はたぶん、それなりに今まで楽しくやってこれたんだと思う。  幸せに上も下もないと思うから本来はこういう考え方はあんまり良いものじゃないけど、私はきっと平均より幸せな方だったと思う。いろいろな人と会ったし、美味しいものもごちそうになったりしたし、旅費は相手持ちで海外に連れて行ってもらえたこともある。もちろん、嫌な思いをしたこともなくはなかったし、変な人に付きまとわれたり、声をかけられたり痴漢みたいなものに遭うこともあったんだけど。きっと、客観的、総合的に見て、私は楽しくやってこれた。  でも、結局パートナーみたいな人を見つけられずにここまで私は来てしまった。楽しかったけど、たぶんそれだけなんだ。私はずっと一緒にいたいと思える人を見つけられていない。友達も恋人もそうだ。換えのきかない存在なんてものは私にはいない。  コンドームを付けずに挿入したがる彼氏の一人とそのまま流れでしてしまって、子どもができてしまえば幸せだったのかな、なんて昔の私が聞いたら殴られてしまいそうな気持ちになることだってしばしばある。別に私だって、そんなに賢くなかったのだから、どこかネジが弾け飛んでしまっていただけなのだから、そんな大きな緩やかな流れの河を漂ってしまうような人生だって良かったはずだったのだ。そうしたら今頃、子供が中学生くらいになって、若くてきれいなお母さんだねーなんて言われちゃう人生があったのかもしれないのに。  二十代の後半から私はがらっと生活を変えた。転職した先の今の会社が忙しかったこともあるし、いい加減フラフラ生きていくのも飽きてきたこともあるのかもしれなかったが、SNSもしばらくお休みして、ただひたすら仕事をし続けていた。合コンもほとんど参加しなくなって、一年単位でセックスをしなかったときもあった。どうしてもしたくなったときは単発で相手を変えてした。どんなにタイプな男でも一回したら私は連絡を絶った。セックスをするためだけにネットで出会った男とホテルに直行したこともある。セックスも男も私にとっては刹那で瞬間的なものでしかなくなった。  どうしてそういう状態に私はなったのかわからない。でもその時の私はそれが正しくはないにせよ、自分にとって心地の良い状態を作っていたらそうなったとしか言えない。  私は会社である程度の立場になっていき、だんだん美人だけど近づきにくい(自分で言うか)雰囲気をだしているみたいな感じになった。仕事終わりに飲みに行こうよって誘ってくれた人たちも結婚したり、退職したり、自然消滅していった。  私は楽な状態を自分で作り上げていたのだろうか? 何も考えていなかったのだろうか? そんな事は多分なかったはずだったのに、あの頃の私の記憶があまりないのはなぜだろう。私はこのまま私がずっと続いていくと思っていたんだろうか。ぱちりと相手の気持ちを切り替えてしまえる私は、ずっとそのままでいられると私は私を過大評価していたんだろうか。無意識に?  私は私の人生をくぐり抜けてしまったようなそんな気がしている。私はもうあの頃に戻れない。後悔はもちろんしていないし、悩んで何もできなくなってしまうのは嫌だ。でも、もう、私はあの頃を取り戻せない。あの頃の可能性を取り戻すことはできない。  カツラくんと付き合ってから三ヶ月が経った。その間、私はカツラくんと寝ていない。寝れていない。セックスをしていない。私は怖くなってしまって、そのことをカツラくんに言えないでいる。「お泊りしようよ、ホテルに行こうよ」どうして今まで簡単に言えていたようなことが私は言えなくなってしまったのだろう? なんで私は彼の家に遊びに行っても、彼が私の家に遊びに来ても、キスとハグだけされて終わってしまうの? どうして私の性器は彼に愛撫されることがないの?    たっくんとは二週間に一回くらい寝ている。私はたっくんと付き合いたくない。私は他の人ともセックスをした。たっくんには恋人ができた。セックスはそこそこ気持ちがいい。私は恋人とセックスをしていない。三ヶ月の間に起きたことは、それだけだ。私はカツラくんのことが好きだと思う。  たっくんの部屋に久しぶりに遊びに行くと、たっくんの彼女用と思われる物が無機質なたっくんの部屋で不思議な存在感を放って鎮座していた。それぞれの物はどこにでも売ってる変哲も無いものだ。安物の化粧水やコンタクトレンズの洗浄液、歯ブラシ、料理はしないはずのたっくんなのに、ペアで揃えられた食器……。それらが一つの空間にあるということで誰かの存在が浮き上がってくる。たっくんとは違う誰かの存在がそこにはある。シャワーに入った後で彼女用のタオルを貸してもらったけど、たっくん以外の匂いがタオルから香ってくるような気がして私は少し複雑な気持ちになりながら短く「ありがとう」と言った。  たっくんの恋人の写真を見せてもらう。けど、どうしてその女の子をたっくんが選んだのかわからなかった。正直そこまで美人でもないし、プロフィールの文章も平凡だった。ディズニーが好きで、時々旅行に行くのが好きで、派遣社員で働いていて、この間は劇団四季にはじめて行って感動しました! なんて書かれていた。私は絶対にその女の子と友達とかにはならないだろうなあと思ってしまう。  たっくんは私があまりいい反応をしないだろうということを予想してたのか、彼女のプロフィールを見せるとすぐにスマホを引っ込めてしまう。私は何の反応もできなくなってしまう。  たっくんは彼女のことを話さないし、私もカツラくんのことを話さない。「うまくいっている?」「まあそれなりにやっているよ」なんてやり過ごして、仕事のこととか最近見た映画のことか、最近食べたファミレスのメニューで美味しかったものとか、できる限り当たり障りない会話をお互いが楽しくできればそれでいい。おまけにセックスがついてくればそれでいい。これ以上深くも付き合いたくない。これ以上関係性を深めたくない。それはたぶんお互いに思っていることだろう。  ねえ、たっくん。私は事後にたっくんに声をかける。何? とたっくんは言う。何でもないよ。私は返事をする。何でもないか、それならいいか。  たっくんは毛布を自分の鼻の付け根くらいまで引き上げて私から背を向けてしまう。「結構案件が燃えていて、ようやく落ち着いたから久しぶりにゆっくり寝られるんだ」そういうと滑らかにたっくんは眠りの世界に吸い込まれてしまう。すとんというような音が聞こえるくらいの眠りの世界への落ち方だった。あまりに見事だったので私は少し感心しながらたっくんの寝姿を眺めてしまう。  カーテンを開けると、窓から見える空はからりと晴れていて、太陽の光が差し込んできて眩しい。  鳩でも雀でもない小さな鳥がベランダの手すりに止まった。ぴぴぴと鳴いて、すぐに飛び立ってしまう。  鳥が飛び立ってしまうとたっくんのいびきだけが部屋の中に響く。普段はいびきをあまりかかないのに、よっぽど疲れていたんだなと青白いたっくんの頬を撫でる。    このままここにいようかな、何も言わずに帰ってしまおうか。私はいろんなことを決めかねている。

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