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 5分も経たないうちに、額に汗が浮き始めた。  高校最後の夏休み。二度目の登校日を終え、帰路を急ぐ僕の全身に、容赦なく日差しが降り注ぐ。  額から生まれた玉の汗は、頬をつたい、顎から落ちて、真新しいポロシャツにじわりとしみ込んだ。  懸命に漕ぎ続けている自転車は、涼しく風を切る――なんてことはなく、体にまとわりつく熱風を巻き上げるだけ。教室の天井に備え付けられた首ふり扇風機と同じく、お節介な仕事をしてくれている。  机に溶けたように突っ伏したまま、うめき声をあげるクラスメイトの面々を思い出し、 「……あー!」  たまらず叫んで、空を仰ぐ。そこには、さんさんと光り輝く白。  そのまばゆさに思わず手でひさしを作り、目を細めたとき、ふと脳裏をよぎった。  ――今度は会ってくれるよね?  5年ぶりに届いたメッセージに、僕はなかなか返信を送れないままでいる。  * 「あっ、シュウちゃん、またヒビはいってる!」  いつも、彼女に言われてやっと見る。見て、はっとして、落ち込む。 「もう、ちからいれすぎなんだって。こう、おにぎりつくるみたいに、やさしくやるんだよ」  しかたないなというふうに微笑む彼女――春陽ハルヒが、小さな手のひらで大事そうに転がしている黄土色のそれは、自分のそれとは比べものにならないほどツルツルしていて、まん丸だった。  その違いに、また肩を落とす。そんな僕に対し、彼女はふふっと笑った。  自分はすでに一段落ついたらしく、泥とは思えないほどきれいなそれを、からの黄色いボウルの中にそっと置くと、 「ほら。いっしょにやろ?」  そう言って、いびつな球体が乗せられた僕の手に、その小さな手を添える。まだ、歳を数えるのに両手がいるかいらないかというくらいだったから、こんなことも平気でできてしまった。 「ひとりでできるのに……」  不満げな僕の呟きには聞こえないふりをして、春陽は手を添えたまま、鼻歌交じりでゆっくりと球体を転がし続ける。僕の手のひらの上で、デコボコだった表面が、だんだんとなめらかになっていくのを感じた。  春陽と僕はご近所さん――物心ついたときから一緒にいた、幼馴染だ。  保育園の年長にあがったばかりの頃、僕らは泥だんご作りに熱中していた。よく晴れた日、保育園の帰りに、春陽の家の裏庭に集まって、作業開始。  土をボウルに入れて水と混ぜ、ひとすくいしてぎゅっと握り固める。まあ、ここまでは誰でもできるだろう。  泥だんご作りのセンスが求められるのは、形を整えるところからだ。砂をかけながら指で馴染ませて転がす、という工程を繰り返すのだけれど、当時の僕はどうにもこれが上手くできなかった。  同じことをしているはずなのに、どうしてハルちゃんが作るといつもたまごみたいにきれいになるんだろうと、嫉妬の入り混じった憧れを抱いていた。 「ゆっくり、コロコロって――」  すぐ隣、お互いの吐息さえも触れ合いそうな距離にいる彼女を、何気なく見つめる。  春陽は、体も心もやたらと大人びた子供だった。  保育園に着ていく、淡い桜色のスモックが似合わない。アメリカ人のファッションモデルである母親から受け継いだのだろうセピア色の瞳と、ふわふわとした栗毛は、不思議と見る者を惹きつけた。  心もまた、いじける僕の機嫌を損ねないよう、姉のように根気よく相手をしてあげられるくらいには、ませていた。 「はい、できたよ。シュウちゃん」  ヒビ割れた部分を修正し、すっかりまん丸になった泥だんごを見て、春陽はふっと目を細める。そんな仕草も大人っぽい。  春陽は僕のことを「シュウちゃん」と呼び、僕は彼女のことを「ハルちゃん」と呼んだ。  名前の通り、ひいらぎの葉が茂る頃に生まれた僕と、春のやわらかな陽射しの日に生まれた彼女。  子供な僕と、大人な彼女。  泥だんご作りが下手くそな僕と、とても上手な彼女。  僕らは何もかも正反対だったけれど、ずっと一緒だった。正反対だったからこそ、一緒にいたのかもしれない。  と、春陽が合図のようにあくびをした。 「おひるね、しよっか」  猫みたいに眠そうに目をこすりつつ言う彼女に、僕は小さくうなずく。  これだけでもなかなかの出来だが、さらにピカピカな泥だんごを作るためには、形の整ったものを30分から1時間くらい日陰で休ませなくてはならない。  泥だんごに付き合って、僕たちもお昼寝だ。 「ほれ、起きんさい」  体を軽く揺すぶられ、低くかれた声に目を開けると、しわくちゃなおばあちゃんの顔があった。  そして、やっぱりすぐ隣、肩が触れ合う距離に、花のような笑みをたたえる春陽。  なんの躊躇ちゅうちょもなくひとつの布団の中で身を寄せ合えたのも、僕たちがまだ未熟で、幼かったからだ。 「ようす、みにいこ?」 「はやくはやく」と催促する春陽に手を引かれ、半分寝ぼけた状態で縁側へ出る。  僕はいつだって、彼女の言葉で動く。動いて、何かに気づかされる。  軒下で休ませておいたふたつの泥だんごは、小さなボウルの中に、ちょこんと仲良くおさまっていた。まるで、さっきまでの僕たちみたいだ。  ここから、追い込みに入る。乾いた砂をふるいにかけて細かくし、「さらこな」と呼ばれるそれを泥だんごの表面につけて磨いていくのだ。  軒下に並んで座り、 「こんどはひとりでできるから」  と意地を張って忠告した僕に、春陽は、 「うん。わかった」  素直に了解して、また包み込むように笑う。彼女は本当に大人すぎる子供だった。  さらこなを満遍まんべんなくいきわたらせて、最後にもう一度砂をつけたら―― 「できたー!」  先に完成の声をあげたのは、いつものごとく春陽だ。 「ぼくだってできたよ」  僕も負けじと胸を張り、ふたりそろって泥だんごを太陽にかざす。  ところが、その出来栄えの差に、飽きもせず愕然がくぜんとしてしまった。  春陽が作ったものは、思った通りたまごのようにつるりんとしていて、眩しい太陽を覆い隠すようにまん丸。  対して僕が作ったものは、さらこなのかけ方が下手なのか、それとももっと前の段階で問題があるのか、統一感のないまだら模様。形こそ崩れていないものの、表面はデコボコに戻ってしまっている。  もう5、6回は作っているはずだ。春陽はそのたびに上手くなっていくけれど、僕はちっとも上達しない。 「シュウちゃんのどろだんごは、おつきさまみたいだね」  ぽつりと、春陽がそんなことを言う。 「つきはこんなデコボコじゃないよ……」  拗ねて唇を尖らす僕に、彼女は「ううん」と優しく首を振った。 「パパがとったおつきさまのしゃしんがね、こんなふうにまだらもようだったの。『くれーたー』っていうデコボコがあるから、じょうずにとるとそうみえるんだって」  春陽の父親は芸能カメラマンだったが、元々は風景写真が好きだったらしい。  僕は「ふうん」と興味なさげにつぶやいた後、こう続けた。 「……じゃあ、ハルちゃんのは、たいようだ」  春陽は胸をつかれたように、ぱっとこちらを振り返る。その瞬間、長い栗毛がふわりと波を打った。 「――たいようの、たまごだ」  繰り返す。 「くれーたー」なんて知らない。ただ、ハルちゃんが褒めてくれたのが嬉しかったから、僕も思っていたことを口にしただけだ。  今思えばそれは、意地っ張りな僕なりの、感謝の言葉だった。  春陽は何も言わず、顔をほころばせた。そのとき胸をつついたかすかな切なさが、重大な意味を持っていたのだと、僕は後で知ることになる。  それから何日か雨が降り続いて、泥だんごは作れなかった。  ようやく空がすっきりとした青を見せたある日、母に呼ばれて玄関まで出ていくと、そこには休みなのに桜色のスモックを着た春陽の姿が。 「たまご、つくりたい」  と言って、無邪気に微笑む。僕が例えたあの日から、彼女も泥だんごのことを「たまご」と呼ぶようになった。  僕は快諾し、導かれるまま彼女の家へ向かう。道中、ずっと握られていた手は、じんわりと痛かった。  ――どうしたの?  訊きたかったけど、訊けなかった。訊いたら、春陽が泣いてしまいそうな気がして。  家に着いてからは、ふたりとも無言で泥だんご――たまごを作って、お昼寝をして、仕上げをした。  僕が作ったのは、歪でデコボコ。春陽が作ったのは、まん丸でツルツル。  いつもと同じ。何も変わらない。変わらない。  出来上がったものは、いつも木の葉の上に乗せ、春陽のおままごとセットを使って、食べるふりをしながらすぐに崩していた。乾燥して割れてしまうと、彼女が悲しそうな顔をするから。  おもちゃのフォークを入れ、僕のたまごが、ほろろ……と崩れたそのとき、 「シュウちゃん……」  春陽が消え入りそうな声で僕を呼んだ。 「……わたし、パパとママと、アメリカにいくことになったの」  その言葉に耳を疑い、僕が動きを止めるのと同時に、彼女の小さなひざを、大きなしずくが濡らしていく。 「さいきん、おばあちゃんのぐあいがあんまりよくないし、パパも、がいこくでのおしごとがおおくなってきたから……だから、むこうでいっしょにくらそうって」  母親は海外を中心に活動するトップモデルで、父親は国内外を飛び回るカメラマン。そんなふうだったから、春陽はずっと父方の祖母の家に預けられていたのだ。  様々なことを配慮した上での決断だったのだろう。けれど、当時の僕には、「ハルちゃんが飛行機に乗らなければ行けないほど遠くに旅立ってしまう」という事実しか分からなかった。 「もう、たまご、いっしょにつくれないの……」  春陽は俯いて、悲しげに震えた声でこぼす。そして、すっと視線を上げ、こちらを見つめた。その顔はもう、涙でぐしゃぐしゃだ。潤んだ瞳で唇をぎゅっと噛みしめたかと思うと、何かが破裂したように、わっと声を上げて泣き始めた。  大人な彼女が、初めて僕の前で泣いた。  頭が真っ白になった僕は、おもむろに、まだまん丸な彼女のたまごにフォークを伸ばし、表面を少し削り取ると、それを――口に含んだ。  驚きで一瞬涙を止めた春陽が、 「ばかっ!」  と僕を叱りつけた。遅れて、言葉にならない苦みと泥臭さが口いっぱいに広がる。  無理やり、たまごのかけらを飲み込み、汚くえずいた後、 「だって……だってぇ」  自然とあふれてきた涙を拭いながら、必死に言い訳を探した。だけど結局、泣き声にしかならなくて。しばらくふたりで、糸が切れたように泣き続けた。  どうしてあんなことをしたのだろう。いまだによく分からない。でもたぶん、忘れたくなかったのだ。最後になるかもしれない春陽との思い出を。実際、僕が今でも当時のことを鮮明に思い出せるのは、あの、たまごの強烈なインパクトがあったからだと思う。  そしてその夏、春陽は本当にアメリカへと旅立っていってしまった。  *  汗が不快に首筋をなぞる。  離れてからも僕らは頻繁に連絡を取り合い、夏休み中に一度は再会していた。だが、5年前――中学1年のとき、僕は自ら関係を壊してしまったのだ。  その年、部活で忙しいからとか、どうしても外せない用事があるからとか、適当な嘘をついて、初めて再会を断った。なんだか急に、彼女に会うのがむず痒くなってしまって。  二度と会えなくなるわけでもないし、気が向いたらまた連絡すればいい。そんな甘い考えは、見事に打ち砕かれることになる。  その日を境に、ぱたりと春陽からの連絡が途絶えた。  さすがに怒らせたかと思ったが、違った。彼女がアメリカでモデルデビューしたのだ。  いつも隣にいた彼女は、あまりにも呆気なく、手の届かない場所へと、華やかな世界へといってしまった。  失ってから気づくって、きっとこういうことだ。  その衝撃が引き金となり、胸の奥でくすぶっていた想いの名前を知った。以来、心にぽっかり穴が開いたように寂しく日々を過ごしていたときに、ようやく届いた、1通のメッセージ。  ――今度は会ってくれるよね?  ――そりゃ、僕だって会いたいさ。  なんて返せたら楽なんだろうけど、それができないのが僕なのだ。下手くそな泥だんごを褒めてくれた女の子に、ありがとうさえ言えないようなヤツ。  だから僕は、照りつける太陽の下、心の中で何度も「待ってる」と繰り返しながら、がむしゃらに自転車を漕ぎ続けた。

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