柱廊のこぼれび
『 もしもともしも 』

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もしものはなしに利益はないから、誰かがもしもって想像を膨らませながら話しかけてくるのを拒絶した。 もしものはなしに現実味はないから、彼女がもしもって明るい笑顔を向けながら問うてくるのを嫌った。 もしものはなしに必要性はないから、あなたがもしもって例をあげながら連ねる言葉の意味すら考えることを放棄した。 もしものはなしにもしもは存在しないけど、私がもしもって考えてしまうことがあるとしたならば、どうしようかとその矛盾を噛み砕く。 ただうるさいだけの鉛筆音も、気怠けなあくびも、淡々と教室に響くチョークの音もこれが日常で普遍的なものだった。 代わり映えしない日々につまらないと思ってしまうから、人はもしもの世界を考える。 空想上の幸せなんて、悲恋なんて、憎しみなんて、激情なんて なんの意味があるというのか。 それはあくまで仮想のもので、ここに脳内で育んだその感情を生む世界がある訳じゃない。 一人の頭の中を世界中に投影させることができる機械があるわけでも みんなで一人一人の脳内へ入り込み、その世界を味わう魔法があるわけでもない。 もしもの場合で禁断の恋をする。 もしもの場合で仲の良い子と殺し合う。 もしもの場合で赤の他人を大嫌いになる。 もしもの場合で自分を消してみる。 もしもはもしもであり、それ以上でも以下でもないのだ。 なのに、人は自分勝手で都合がいい。 もしもはリアルになりうるのだ。 利益も現実味も必要性も、追加要素としてありになってしまうのだ。 無いものが有るものに変わるとき人は自分を変革させてしまうのかもしれない。 いわゆる、勘違い。錯覚。錯誤。 思い込み。 余計なことを考えなきゃいいのにと思う。 そうすればより平和かもって。 第一人者になれるよう、私は全てを受け入れない。 もしもをレッドカードから外さなきゃ。 そうすれば私もまた、もしもが言えるようになる。笑えるようになる。考えられるようになる。 見えないもしもを悪者にしなくていい。 教科書をもって音読をした自分の声に嫌気がさした。 机にまわってくる小さく折り畳まれた紙はくだらない。 数多くの言霊を蓄えて、教室を一周する。 もうすぐ夏も終わると感じた午後2時46分。 巡りめぐる季節の変化にすら求めるもしもは使い勝手のいい代用品で、加えて鍵もかかっている。 解錠するのは自分だけ、宝箱を体内に設置しているような気分になる。 もしもの捉え方は同じでも、もしもの扱われ方が代わったらそれは捉え方も変わったのと同じようなもの。 そして気づきました、私は。 生き物の数だけ、もしもが存在するなら、それは遥かにもしもという独立した一個体の可能性の方がこの地球上で絶対的な確率として正確性を射てるのではないかと。 個体としての生物。 人間である私たちの空論。 物質化した場合のもしも。 何が変わり行くのだろうか。 醜いアヒルの子は大きくなってもコンプレックスを拭いされないままなのではないか。 赤い靴の少女は足を切られても躍り続けたいのではないか。 もしもが世界を創造し、破壊する絶対神なのかもしれない。 もしもこの言葉が誰かに届くのなら、もしかしたら、何かが変わるかもしれない。 そんなもしものひとりごと。

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