五十音のへんな生き物図鑑
『す』すめふらふ 前編

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 〇〇県の鰯村という漁村に奇妙な噂が立ちました。  それは、土曜日の夜になると、浜辺に男にしか姿を見せない女の化物が現れて、出会った男を喰ってしまうという恐ろしいものでした。  実際、数名の行方不明者が出ていたので、多くの者がこの噂を信じていました。    男にしか姿を見せない化物がその男を喰って殺してしまうのなら、そんな具体的な内容で噂が立つのはおかしいのですが、噂話とはそういう物なので、鰯村の男達は噂のままに怖がりました。  しかし中には怖がらず、好奇心に胸を躍らせる奇特な者も居るのが人間なのです。  特に、獣助(じゅうすけ)と飯郎(めしろう)という二人の若者は、その化物に会いたいとまで思うようになりました。  学童時分から仲の良かった二人は、いつものように神社の境内に理由も無く集まって、焼酎のサイダー割りを飲みながら煙草を吸い、あれこれ空想を巡らせて興奮しました。 『飯郎よ、俺が思うに噂の化物は本当だぜ』 『そうだね、獣助君。僕もそう思うよ』 『一度、見てみたいものだな。俺なら、その女をとっ捕まえて見せ者にする。とても儲かると思うんだ』 『えっ、そんな事をするのかい』 『当たり前じゃないか。では、お前はその化物に会ってどうするつもりなんだ』 『どうって、別に何もしやしないよ。ただ見てみたいだけ』 『変なやつだな、お前は。昔から目的も無しに行動しようとする』 『見てみたいっていうのが目的さ』 『そんなもんかね。どうだろう、次の土曜日に浜へ行ってみないか』 『そうだね、獣助君が居れば俺も心強い』  二人はこのように約束をし、その日は帰って眠る事にしました。  実のところ、獣助と飯郎はそれぞれ宣言したのとは違う本当の思惑を胸に秘めていました。  獣助は本当は女を見せ者にする気など無く、美人なら自分の奴隷にし、醜女なら殺して村の英雄になろうと考えていました。  彼は女好きでしたが、女性に対して極めて非情な考え方をする男で、女を男と対等の生き物だとさえ思っていないのでした。  なので、自由を奪った上で自分の得になるように扱うか、それに適さなければ始末するという事しか頭に無かったのです。    見せ者にすれば、化物は自分でお金を稼いで生きていく方法を知ってしまう。化物を哀れんで助けようとする輩まで現れてしまうかもしれない。そんな事は絶対に許さない。  女性の権利を徹底的に否定する獣助はこんな事まで考えていたのです。  では、飯郎はどうだったのでしょうか。  飯郎は飯郎で、人畜無害のような顔や発言をしておきながら、実は獣助や他の男衆以上に筋金入りの女好きでした。  年がら年中、女の事ばかり考えており、女の事を考えるのにほぼ全ての自由時間を使用している始末だったのです。    そんな男なので、その知識は驚異的なレベルに達しており、女の事なら知らない事は無いというほどでした。  また、女の気持ちや思考を見抜く感覚は極限まで研ぎ澄まされていました。  彼はほぼ、見るだけでその女の事が分かるようになっていたのです。  それ故に、彼は女を知りませんでした。  それもそのはず、分かり過ぎるというのは必ずしも理解をもたらすとは限らず、時には人から行動を奪ってしまうのです。  例えば、普通の男は女をデートに誘う際、嫌がられているだろうとは考えません。 (中には、嫌がっていると知った上で誘うのが好きという変わった男もいるにはいますが、これはデートをしたいのではなく嫌がられるのを好むだけの人なので別です)  考えていたとしても、『まぁ、何パーかはそういう可能性も有り得るかな』ぐらいで、この際それは無しにして一か八か的な感覚でそれをしようとします。  本当の所、この一か八かで成功に賭ける気持ちが多少なりともなければ、人間は何もできないのです。  実際、女の方も行きたいが100で行きたくないが0なわけがありません。  気が進まないけどまぁいいかとか、あんまり断ると悪いなとか、揺れ動くプラスマイナスの最中たまたまの流れでデートに付き合う事も有るのです。  つまり、男も女も、相手の事が分からないからこそノリで一緒になれるというケースが有るのです。  しかし、飯郎はその鋭い洞察眼で、女性の『ウーン…』な部分を明確に捉えてしまうので、いつも女に触れる事をよしてしまうのでした。  皮肉なもので、誰よりも女を愛し女の事なら何でも見抜ける飯郎だからこそ、女と無縁の生活を送っていたのです。  それでも筋金入りの女好きなのは変わらないので、今回の化物も、女ならば見ずにはおれんとなったのです。  しかも、人間ではない美女と考えると、抗いようのない興奮が体内の奥底から湧き上がってくるのです。  これがなぜかは本人も分かっていませんでしたが、例えば好きな分野を学んでいくと、そこから派生する他の分野にも興味が拡がっていくのと同じで、人間以外の女というのも、謎めいていて面白そうだと思ったのでしょう。  どうして二人は本当の願望を打ち明けなかったのか。  それは無意識のうちに、自分の願望が歪な影の下に有ると認識していたからです。  これを言ってしまうと、自分は良くない存在だと思われると。  実際は大した問題でもないのですが、人はいつも他人にとっては大した事ない問題で悩むのです。  そんなこんなで、土曜日がやってきました。  夜中、獣助は浜辺の側に生えている松の木の下で、飯郎を待っていました。  なぜ危険だと言われている現場に近い場所で待ち合わせをするのかは謎ですが、この辺りに二人の前のめりな気分が現れていると言えるでしょう。  しばらくすると、満月が黒雲に覆われて辺りは幕を下ろしたような闇に包まれてしまいました。  いかにも化物が好みそうなロケーションなので、肝の太い獣助も流石に怖くなってしまい、その場所で一人で待っている事ができなくなってしまいました。    なので、浜辺から少し離れた場所に移動し、そこで待つ事にしました。  そうしてしばらく待っていると、浜の方から人がやって来ました。  獣助は、飯郎が来たと思い、いくらか安堵しつつ声をかけました。 『おーい、ここだここだ』  獣助が手を振って声をかけると、その人は立ち止まりました。  不思議に思いました。なぜあんな中途半端な所で立ち止まっているのか、そしてなぜ何も言わないのか。  仕方がないので獣助の方から、その人に駆け寄りました。すると、そこに居たのは飯郎ではなく、砂二郎でした。  砂二郎は、獣助や飯郎とも親しい学童時分からの仲間です。   『砂二郎、なぜお前がこんな所に居るんだ』 『それは私のセリフですよ、獣助君。君も例の噂の真偽を確かめに来たのですか?』 『ああ、そうだよ。もうすぐ飯郎も来る』 『飯郎君も。では、三人で化物を探すとしましょうか。私も気になって来てみたものの、何だか怖くなっていたので心強いですよ』 『怖いなら帰れば良いのに。まぁ、いいさ』  二人で待っていましたが、飯郎はなかなかやってきませんでした。  暇なので、お互いに化物を見つけたらどうするつもりなのかを話す事にしました。  砂二郎の語る思惑はこうでした。  化物は何人かの男を喰ってしまったと思われるが、それは本当なのか確かめたい。  それが本当だった場合は、償いをさせなければならない。また、濡れ衣だった場合は自分が代表となって、その冤罪を証明してみせるので、自分と共に村へ出てきて欲しい、と。  砂二郎は自分の考えに誇りを持っているといった堂々たる態度で言いました。理由もなくにぎり拳を自分の胸の前へ持って行く所が、いかにも誇らしげです。  当然ですが、これらは全て嘘でした。  彼が言う動機が本当なら、丸腰で来ているのは妙です。  殺人鬼を追跡するのに単身・手ぶらで行く者はいませんし、そもそも普通はそんな事をしないでしょう。  砂二郎もまた、二人に負けず劣らずの女好きだったので、己の欲望を叶えんとやって来たのでした。  彼は鰯村の名家の長男であり、学問も武道も一流のいわばエリートです。両親や村の集にも将来を期待され、信頼されていましたが、それ故に彼女も簡単に作れなかったのです。  なぜなら、身分に相応しくないと両親が判断すると、父親がその子の家に行って『息子と関わらないでくれ』などと恫喝してしまうからです。  大きな町ならともかく、小さな鰯村でそんな事をしていると、あっという間に彼女候補は居なくなってしまいます。  当たり前ですが、砂二郎は両親の過度な監視下におかれた生活に辟易していました。そして、それを打ち破る術も知りません。  そんな所に今回の噂を耳にしたのです。  村人を拐った化物を捕獲、もしくは退治するという名目なら勇ましい理由だし、父親も認めるだろう。ならば堂々と美女に会いに行ける。この際、化物だとか人間だとかどうでも良い。どうにかして惚れさせてしまいたい、付き合ってしまえば後はどうにでもなる。  砂二郎はそう思い、両親に申し出て、ここにやって来たというわけです。    砂二郎の本心を知らない獣助は、砂二郎をなんてバカなやつなんだろうと思いました。  そんな事をして一体何になるのか。全てが獣助にとっては馬鹿げた行為に思えたのです。  それらは全て建前で、本音は獣助と何ら変わらない不純物たっぷりの欲望なのですが、獣助はそれを知る由もありません。  砂二郎も獣助に思惑を尋ねましたが、こいつに話すと面倒な事になりそうだと確信した獣助は適当に、 『ただの好奇心で見てみたいだけだ』と、言いました。  すると、砂二郎は敢えて愚か者を見るような目を作って獣助を見、 『たったそれだけですか?ふうん』 と、言いました。  一々態度がムカつく野郎だなと獣助は思いましたが、別に砂二郎に舐められて損をする事は今のところ無いので、黙っていました。  そうこうしている内に、ようやく飯郎がやって来ました。大慌てで走って来たらしく、呼吸が乱れて大汗をかいています。 『遅かったじゃないか、何をしていたんだ』 『ごめんごめん、出掛ける直前に客が来たもので。あっ、砂二郎君じゃないか。君も来たんだね』 『ええ、今晩は飯郎君。では、揃った事ですし、化物を探しに行きましょうか』   『行こう行こう』  三人は浜に向かって歩き始めました。  灯りなど何もないので、そこは真の暗闇でした。  せめて月が出ていれば、地面に落ちている物や波の満ち引きぐらいは何とか見えるのですが、その日はどこまでが砂浜でどこからが海かの区別すら付かないぐらい暗かったのです。  三人は探り探りで波打ち際までやって来て、そこから際に沿って歩き始めました。大きな浜なので、端から端まで1キロはあります。  歩きながら、当然話題は化物の話になりました。 『どういった手口で男を殺すのだろうね』 『どうして男しか殺さないのでしょう』 『そもそも、その化物に最初に会ったのは誰なんだろうな』  三人は色々と話しましたが、どれも実際に会って聞いてみないと分からない事だらけでした。  なので、その話は取り止めにして、今度は化物とは一体どんなヤツなんだろうというイメージ像を作り上げる事にしました。  獣助の化物はこんなヤツです。 『俺はやっぱり、冷酷な二枚貝みたいな女だと思うね。巨大な貝殻をパックリ開いて待ち構えている。貝殻の中では、切れ目で黒髪の美人が艶かしい姿で男を誘ってるんだ。そして、誘いに乗って近付いた所をバクンッ!とやるわけさ。喰われた男は中で溶かされちまうか、永久にそこで暮らす事を強いられるか、二つに一つだ。まったく、女ってヤツは恐ろしい生き物だよ』  飯郎の化物はこうです。 『多分、イソギンチャクやアメフラシみたいな軟体動物の特徴を持った、童顔で豊満な女性だと思うよ。海からヌルリと上陸して、闇の中に身を潜めているんだ。そして、近付いて来た男を、その柔らかい身体に取り込んでしまうんだ。その後、体内に備えてある無数の管を男の身体に差し込んで、体液を吸い取るのだと思う』  砂二郎の化物はというと、 『下半身がクラゲの、髪の長い細っそりとした女だと私は思いますね。月光に照らされた海面から上半身だけを出して、憂いを帯びた目で男を誘惑するのです。そして、一帯に張り巡らせた糸状の毒針で、駆け寄って来た男を痺れさせてしまうのです。動けなくなったと見ると、海底に沈めて溺死させるのを楽しみとしていると私は考えています』  三人は、それぞれが話した姿と手口を各々思い浮かべて震え上がりました。  それと同時に、自分が想像していなかったタイプの美女も頭に浮かんできて、『ううむ、そういうのも割とスキだな』と生唾を飲みました。  恐怖と欲望が渦巻く脳内は、もはや混沌としており、三人は怯えているのか興奮しているのか分からない状態になりました。  幸か不幸か、それによって元気を得た三人は暗闇に竦む事もなく、ずんずんと浜を進んで行ったのです。    どれくらい歩いたのか、気がつくと三人は森の中に立っていて、いつの間にか見た事もない村の前に立っていました。  そこには、三人が想像した事すらない華やかな造りの門が建てられていて、村というよりかは、楽しい事が満載の都の入り口と呼ぶ方が正しいかもしれません。  三人共、顔を見合わせて驚きました。  なぜなら、三人は幼い頃から鰯村の周辺は詳しく知っているし、こんな立派な都が歩いて行ける距離に有るというのは、あり得なかったからです。 『おかしいな、いつの間にこんな森の中に入ってたんだろう。そんなに歩いてないよね』 『当たり前だ。俺は親父の付き添いで鮪村や平目村まで行った事があるけど、その道中にもこんな都は無かった』 『綺麗な門だね。まるで花か珊瑚か琥珀だよ、これを見てるとすごくドキドキするのはなぜだろうね』 『なんだか異様ですね。もしかして、これが化物の住処だとか?この華やかな外観で男を惑わして誘いこみ、閉じ込め、世にもおぞましい方法で捕食するのでは』   『えっ、砂二郎君、これは妖術で生み出した幻だというのかい?』 『分かりませんよ。そうかもしれない、という話です。そう考えれば、例の噂も辻褄が合うでしょう』 『つまり、この都には男を喰う美女がウヨウヨ住んでるって事か』 『そ、それは恐ろしいね』 『そうだとしたら、まるで地獄のような都ですね』 『そうだな、では入るとしようか』 『はい』『気をつけて入ろうね』  三人は地獄のような場所だと自分達で言っておきながら、なぜか門をくぐって中へと入って行きました。  そして、中に広がっていた光景を目の当たりにし、目玉が飛び出しそうなぐらい仰天しました。  なんとも言えない甘い香りが辺りに漂い、金色の霧が薄くかかっていました。  そして、種類の分からない木が桃色や緑色にキラキラ光っており、松明も月も無いのにとても明るいのです。  さらに豪華絢爛煌びやかな建物がズラリと並び、美味しそうな田楽や蕎麦や焼肉の屋台が出ています。  そして、なにより女の美しさに驚きました。そこには村の女達と比較して、別の生き物なんじゃないかと思うほど美しい女がウヨウヨしていたのです。  滑らかで黒光りする髪、日焼けをしていない白い肌、さくらんぼのような紅い唇。そんな女が赤や紫色の着物を着て、当たり前のように歩いていました。  それだけではありません。  頭髪が金色だったり赤色だったりする、不思議な女も居ました。  彼女らは着物ではなく、肌を大いに露出した変わった服を身に付けていました。顔立ちや仕草も、三人が知っている女とは違っていて、これに関しては本当に別の生き物なのではと思ってしまうほどでした。  三人はあまりの衝撃に、しばらくの間、呆然と立ち尽くしていました。目の前の世界が自分達の知っている世界とかけ離れていた為、理解するのに時間が必要だったのです。    そうしていつまでも立ち尽くしていると、何やら一際妖艶な雰囲気を纏った女性がやって来ました。    三人はそれに気が付き、大慌てで呆然としていたのを隠そうと努めました。世間知らずの田舎者だと思われる事を恐れたのです。  女は嬉しそうに微笑むと、三人にこう言いました。 『これはこれは、旅のお方。ようこそいらっしゃいました。そんな所で何をなさっているのです?』  三人は女の、完成された美しさに度肝を抜かれました。気配・所作・声・容姿・服装、どれをとっても非の打ち所が無い美女だったのです。 『い、いやぁ。近くにこんな綺麗な人…じゃなかった。近くにこんな凄い町が有るとは知らなくてね。驚いていたんだよ』  獣助が平静を装ってそう言いました。  すると、女は言いました。 『はぁ、そうですか。不思議なモノで、そうおっしゃる方が多くいらっしゃるのです。私達も、なぜ見つけて下さらないのか分からないのです。隠してあるわけでもないのに』  女は言い終えると、ウフフと笑って、子どもがふざけるようにクルクル回って見せました。  三人は、何がそんなに楽しいのか分かりませんでしたが、その仕草が可愛らしいという事だけはしっかりと脳に焼き付いていました。  そして、女の胸元や脚元の白い肌にありとあらゆる神経が反応し、全身の血の流れが加速する感覚を覚えました。   『あっ、私ったら名も名乗らずに失礼をしてしまいましたね。私はこの町の宿屋で働いているシオウと言います』  シオウはそう言うと、にっこり笑いました。それは三人が過去に見た全顔の中で、最も魅力的な顔だったのです。  三人はその笑顔に心臓を撃ち抜かれてしまい、フヌケのようになりつつ、 『宿か、それは良い。今夜はそこに泊まろう』と言って、シオウについて行きました。  道中は三人にとって、まさに楽園の散歩でした。  なにせ、ここでは食べ物も酒も全てが無料で、歩いているだけで綺麗でやたらと元気な女達が牛や鳥を焼いて串焼きにした料理だの発泡する金色の酒などを勧めてくれるのです。  どれもこれも、三人が口にした事の無い物がほとんどでしたが、どれも抜群に美味くて、うっとりとしてしまうほどでした。 『ねぇ、獣助君。これは一体どういう事なんだろうね』 『ああ、本当に不思議だ。なぜ銭が無いのに物を食べて良いのか。そして、なぜこんなに綺麗な女ばかりが働いていて、俺たちに親切にしてくれるのか。全てが分からない。しかしだ、もうそんな事はどうでも良いじゃないか』 『獣助君の言う通りですよ。もう、化物がどうとか、どうでも良くなりました。なんなら、鰯村の事さえどうでも良くなってきましたよ』 『そうだよな。俺達は毎日毎日、何をやっていたんだろう。近くにこんな楽しい所が有るのも知らないでさ』 『みんなは本当にここの存在を知らなかったのかな?知ってて隠してたんじゃないだろうか』 『飯郎、お前にしちゃあ鋭い事を言うじゃないか。それはあながち無いとも言い切れないぜ』 『そうですね。こんな近くに有るのに誰もその話をしないと言うのは妙です。きっと、あまりに素晴らしくて鰯村の暮らしがバカバカしくなってしまうから、若い衆には教えない事になっていたのでは。行方不明になった数名というのも、偶然ここを見つけてしまって帰って来なくなったんじゃないですか。捜索に出かけてここに辿り着く事が無いようにと恐ろしい嘘の噂を流したと考えれば何もかも辻褄が合うでしょう』 『そういう事か、ひどいなぁ。でも、僕達が知らないのも不思議といえば不思議だよね。小さい頃からこの辺りは何度も来ているはずなのに』 『もういいじゃねぇか、そんな事は。たまには有るさ、そんなのも』  三人は今現在の快楽に身を委ねて、釈然としない部分は全て『そういう事も有る』として無視する事にしました。  すると、酒の酔いも相まって、楽しい気持ちが一層強くなったのです。  ある種の覚悟が備わった三人は、鰯村の事やその他の不可解な要素をすっかり忘れて、ますます勢い良く酒や料理を楽しみ、やがてシオウの宿に辿り着きました。 『いらっしゃいませ。どうぞ、入って下さい』 『ハイハイ、失礼します。おお、これは凄い』  中は外から見たよりかずっと広くて、不思議な構造をしていました。  普通、建物というと寸法や算を用いて組み立てていく都合上、部屋や廊下は四角くなるのが定石なのですが、この宿の内部というと、隅や角が一つもありませんでした。どこもかしこも丸みを帯びているのです。  つまり床と壁と天井の境が無く、土鍋のような部屋から竹筒のような構造の廊下がくねりながら奥へ奥へと伸びているのです。  机や長椅子や下駄等も角が無く、タラコやサツマイモのような形をしていました。  しかも、触ってみるとその材質はどうやら木でも漆喰塗りでもないらしく、ぬるりとしていて、硬くも柔らかくもない奇妙な感触をしていました。  また、灯りについても謎がありました。この建物の内部は提灯も行灯も無いのに昼間のように明るいのです。  なぜだろうと飯郎が調べてみると、壁や床がそれ自体発光しているのでした。しかも、部屋中を明るく照らすほどの光なのに、目を眩ませるような事がないのです。    一体どうしたらこんな建物に出来るのだろう、よほど腕の立つ大工が施工したのだろうなと、三人は感心してしまいました。  かと思えば、雨漏りが有るらしく、変にネバネバする水がぽとぽとと落ちている箇所も有りました。  砂二郎が『凝った形の建造物は、それだけ修理するのも難しくなるのだ』と、言いました。  獣助と飯郎が、なるほどなるほどと声を合わせて納得していると、シオウが『ウフフ、そんなにお宿が珍しいですか?』と、言いました。  三人は田舎者だと思われる事を恐れていたし、それを悟られないように努めてきたので、大慌てで平静を装いました。  そして、それぞれがそれぞれを『物を知らないやつはこれだから困る、まるで子どもなんだから』と、見下げるような言い方で非難しました。  シオウはそれを見て、また『ウフフ』と面白そうに笑い、奥へと歩いて行きました。  三人もシオウについて行きました。  しばらく歩くと、床に大人が入れるほどの穴が三つ有りました。  三人は厠(便所)かと思いましたが、こんな大きな便所が廊下に有るはずが無いので、違う何かだろうと思って黙っていました。 『さ、それぞれお好きな部屋に入って、ゆっくり休んで下さいね。もちろん、お代はいただきません。何泊でも、好きなだけ泊まって行って下さいな』 『これが部屋の入り口かい?随分と変わった作りなんだねぇ』 『あら、そうなのですか?私は昔から入り口というのは、建物についている穴だと思っておりました。あなた方の知る入り口とはどんな具合ですの?』 『いや、まぁ、穴といえば穴なんだけどね。細かい事はいいさ、入らせてもらおうぜ。何だか眠くなってきた』 『うん、私もすっかり眠気がきたよ』 『そうだね、僕も』 『ウフフ。どうぞ、ごゆっくり…』  三人はそれぞれ別の穴に入って行きました。 『なぜ部屋から部屋へと移動するのに穴の中を潜って行かなきゃならないんだ。おまけにそこら中、ネバネバしてやがるし、気持ち悪いったらありゃしない』  砂二郎は文句を言いながら穴を進んで行きました。  しばらく進むと、やがて穴が終わり、紅色の灯りが灯った小さな部屋に辿り着きました。  そこはさっきまでの不思議な内装よりもさらに不思議、というか異様な造りの部屋になっていました。  床も壁も天井もシワシワのブヨブヨで、部屋というよりかは、袋の中といった様子でした。  さらに、部屋自体がまるで呼吸でもしているかのように、ゆっくりと膨らんだり縮んだりしているのです。  つづく            

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