太陽の書の国ダイワーンという、とても小さな島国が有り、そこにテンという名の青年が暮らしていた。 テンは名家の生まれであり、両親に幼い頃から一流の人間なる為に育てられた。 名門の学校でありとあらゆる最高の教育を受けて育ち、成人となった今では人格・教養・実力と全てにおいて非の打ち所がない完璧な人物となっていた。 テンは剣士として怪獣や悪党と戦う事を生業にしていた。 正義感の強いテンは、子どもの頃から自分の才能を世の中を良くする為に使いたいと考えていたのだ。 両親は政治家か実業家になる事を望んでいたが、テンは反対を押し切り剣士になった。 悪を斬り、人々に讃えられる剣士としての自分に誇りを持って生きていた。 しかし、最近は怪獣もめっきり大人しくなっているし、悪党も物分かりの良いやつばかりで大した悪巧みをせず、必然的にテンの収入は減る一方だった。 テンはそれでも良いと思っていた。 貧しいながらも一応食べていける程度には稼げているし、怪獣や悪党に襲われる人が減っているというのは、それすなわち平和な証。 一流の人格を備えていたテンは、それならそれに越した事はないと考えていた。 ある日、ダイワーン国の官僚であるトクがテンの元へとやって来た。 トクの一族とテンの一族とは古くから縁があり、本人達も時々食事を共にしたり、直接仕事を依頼するなど互いに親しい間柄だった。 『テンさん、おられますか』 『これはこれは、トクさん』 『近頃は悪いやつが少なくなり、仕事が減ってお困りでしょう』 『確かにそうですが、私はこれで良いと思うのです。私の仕事が多いという事は、それだけ誰かが危険な目に遭っているという事ですから』 テンは穏やかな、遠くを見るような目でそう言った。 『そうですか、あなたのそういう澄んだ心は昔から変わりませんね』 『いえ、そんな。ところで今日は何か用があって来てくれたのでは』 『はい。実は、国王からテンさんに直接の依頼が有るのです』 『えっ、本当ですか。では、どこかで怪獣か悪党が狼藉を?許せん!それはどこのどいつです』 テンはグンと立ち上がると、温和だった表情が今にも剣を手に駆け出しそうな獣の顔付きに変わった。 トクはテンを静止し、話を続けた。 『いえいえ、違うのです。それがですね、あまり大きな声では言えないのですが。テンさんはもちろんゾネを知っていますね?』 『…もちろん知っていますよ』 テンは表情をしかめた。 ゾネとは、ダイワーン国において最も穢らわしく、その名を口にする事さえ恥ずかしい行為とされていた生き物の事だった。 彼らはダイワーン国の北の果てにあるゾネオルバという荒れた山に自分達の住処を作って暮らしていると言われていた。 ゾネはダイワーンの人々の知恵や資源を盗む上に、惑わしたり危害を加える有害な存在なので、ゾネオルバの山には近づかないよう、さらにはゾネに関心を持たないようにとも言い伝えられていた。 そんな存在なので、テンに限らずダイワーンのほとんどの若者はその姿を見た事がなかった。 全ては教師や親の言葉で聞くか、教科書や書籍に書いてある物を読んで得た知識だった。 テンはゾネを狡猾で下劣な連中だと認識しており、その名を聞いただけで顔をしかめてしまうのだった。 『ゾネがどうしたと言うのですか』 トクは言葉を選んでいるのか、しばらく難しそうに悩む素振りを見せてから言った。 『実はですね。国王がゾネを一匹欲しがっているのです』 『なんですって?』 テンは目を見開いて驚いた。 あろう事かダイワーンの王が、下賤の者であるゾネを都に入れようとするなど、テンには信じられない事だった。 『それは一体どうしてです』 『いえ、もちろんちゃんとした理由が有るのですよ。 国王はゾネがダイワーンを侵略して来た場合に備えて、やつらを調査しておく必要が有ると考えておられるのです。 その為にゾネを一匹捕まえて、その生態や性質を研究しようというのです』 これを聞いてテンは胸を撫で下ろした。 自分が全てを賭けて守ってきたダイワーンの都に、国王が進んで穢れた種族を受け入れるなど許せるはずがない。それは自分達に対する裏切りに等しい行為だと思った。 しかし、そういう理由なら納得もいく。頭の回転の早いテンは、言われる前から依頼の内容も理解していた。 『なるほど、そういう事ですか。で、私にその役目をと。こういうわけですね』 『そうです。何しろ、奴らの住処であるゾネオルバは我々からすると悪魔の住処とも言える土地です。 並の者では辿り着く事さえできないでしょう。いや、仮に辿り着いたとしてもゾネを捕えて帰って来る事などできるわけがない。 そこで、あらゆる知識に長け、剣の強さも右に出る者の居ないテンさんにお願いしたいのです。 あなたにしか、できません。 無理を押し付ける願いだとは分かっていますが、どうか引き受けて貰えないでしょうか』 トクは誠意に満ちた口調でそう言うと、深く頭を下げた。 国の頼みであり、親友の頼みでもある仕事をテンはもちろん引き受けた。 『トクさん、私に任せて下さい。たしかに綺麗な仕事ではないかもしれないが、ダイワーン国がそうするというならそれは正しい事だと思う。私は喜んで協力する。引き受けましょう』 『おお、テンさん。ありがとう、ありがとう』 テンが快く引き受けると、トクはたちまち涙を流して喜んだ。 『やはりあなたは私の友であり、我が国の誇りだ。こんな仕事を頼めるのは、あなたしかいませんからね。本当にありがとう』 トクの喜び様が、テンには少し違和感が有った。 確かに目の前の難事が一つ解決に進んで喜ばしいのは分かる。 しかしこんなにも、涙を流して感動するような事なのだろうか。 どんな理由が有るにせよ、悪しき存在がダイワーンの地を踏むのだ。果たして手放しで喜んで良い事なのだろうか、とテンは思っていた。 『では、地図と具体的な指示書をここに置いておきます。また明日、支度金を用意して参ります。ありがとう、テンさん。あなたと友人で本当に良かったと思ってます。さようなら』 そう言うとトクは帰って行った。遠く離れても時々振り返り、何度もテンに向かって頭を下げていた。 その姿を見ていると、テンの心も晴れやかになるのだった。 誰かに喜ばれ感謝されるというのは、テンが一番好きなことだった。 テンが指示書に目を通すと、こんな事が書いていた。 ・一つ、この仕事は国家機密ゆえに決して他人に口外しない事。 ・二つ、あれ(ゾネの事)にも名が有る。『タウラ』という名のゾネを探し出し、捕獲する事。 ・三つ、帰還した時は国の者に知られない様、夜のエウド川北側の砦にて密かに受け渡しを行う事。 その他、細かい条件や報酬の金額なども書かれていた。 『なるほど』 テンは与えられた大きな仕事に、胸が高鳴るのを感じていた。 その夜は念入りに剣の手入れをし、旅の支度を整え、元気を付けようと久しぶりに肉鍋を拵えて腹一杯食べ、眠った。 翌朝、早い時間にトクがやって来た。 『テンさん、おはようございます』 『おはようございます』 トクは支度金として20万円を持ってきていた。旅の支度をするのには余る程の金額だった。 テンは、これに加えて報酬も貰えると考えれば、とても良い仕事だなと思った。 『これで旅に必要な物を買い揃えて下さい。ただし、お供を雇うのはよして下さいね、言うまでもない事ですが』 『分かっていますよ。ありがとう、トクさん。ところで、気になる事が有るのですが聞いても良いですか』 トクは一瞬の間を置いてから『なんですか?』と言った。 テンはそんなトクの様子が気になったが、そこには触れずに続けた。 『昨日の指示書に、この名前のゾネを捕らえよと指定が有りましたけど、それはなぜですか?どのゾネでも良いと思うのですが』 トクはホッとした様子で答えた。 『それはですね、ゾネにも知略に長けた者とそうでない者がいるのですよ。 例えば逆の立場で考えてみて下さい。ゾネが我々の生活や文化を盗む場合、やはり学が有り身分の良い者を選ぶでしょう。 それと同じで、私達もゾネの中でも比較的能力の高い者を捕える必要が有るのです』 テンは、ゾネの立場で物事を考えるのは良くない事だが、トクの言う事ももっともだと思った。 『よく分かりました』 二人はダイワーン国の北側、エウド川の近くまで行き、そこで別れた。 トクはテンの手を握り、何度も『ありがとう、よろしく頼みます』と感謝を述べ、去って行った。 テンはトクの姿が見えなくなるまで見送ると、ザッと踵を返し、北へのゾネオルバの山を目指して歩き始めた。 ゾネオルバの山へは道筋こそ険しいが、そう遠くはない。ダイワーン国の都から五日も歩けば辿り着ける距離だった。 テンのように身体の強い者の脚なら、なんて事のない旅だった。 都を離れるにつれ、少しずつ文明の気配が消えてゆき、代わりに自然が風景を彩っていくのを感じながら、テンは歩いて行った。 テンはゾネの事を考えていた。 そんな事を考えるなど良くない事だと思っていたのだが『これは仕事なので仕方がない、考えるなという方が無理だ』と自分に言い聞かせ、割り切っていた。 すると、これまでただ漠然としていたゾネに、幾つもの不可解な点が有る事に気がついた。 まず、なぜダイワーン国はゾネを自国の一部であるゾネオルバの山に住まわせているのかという事。 自分達に害をもたらすだけの存在をなぜ自国の、それもたった五日で行ける距離の土地に住まわせているのか。 普通なら抹殺するか、国外へ追放するか、どちらかの手段を取りそうなものだが。と、テンは思った。 もう一つは、ゾネの正体についてだった。 テンは職業柄、様々な怪獣や悪党を退治してきた。もちろん、人を殺したり、国家転覆を目論んだり、凶悪な事件を起こした者もたくさん見ていた。 しかし、その中にゾネが居た事はなかったし、自分と同じ様な職の者から居たという話を聞いた事もなかった。 にも関わらず、そんな怪獣や悪党などまるで比較にならない悪しき存在だと自分は伝え聞いている。 テンは、今まで気が付かなかったがこれは妙だなと思った。 そんな凶悪な存在なら、自分が目にする機会が有ってもおかしくないし、そうでなくても他の者が有るはずだ。 そもそも、ゾネとはどんな姿をしていて、どんな物を食べて、どんな事をして生きているのかすら知らないという事実に気がついた。 考えれば考える程、謎が深まる。テンはこうした紐解くような感覚を嫌いではなかったが、ゾネに関する事であれこれ思考を巡らせるのは、ダイワーンの国民として恥ずかしい行為だという感覚が有ったので、止めようとした。 しかし、それはできなかった。 人間は一度気になって考えてしまうと、自然と止まるまでは止められない。 テンは諦めて、自分なりの仮説を立てて、それで納得する事にした。 まず、なぜダイワーン国にゾネを含めているのか。 最初に『ゾネが元々ダイワーン国の民であまりに悪事を働いた為に離別させられた』という仮説を立ててみたが、よく考えるとこれは有り得ないと思った。 なぜなら、ダイワーン国は平和と平等と教育を重んじる国だからだ。 悪事を働いた者は相応の罰を受けるが、更生の余地が有る者や子どもにまで国民の権利を奪うなんて事はしないはず。 ゾネが過去にどんな悪い事をしたのか知らないが、現在も引き続き罰を与え続けているというのは、国家の掲げる理想に当て嵌まらない処置といえる。 仮にこれが真実なら、自分はダイワーン国に幻滅するだろうなとテンは思った。 次に『ゾネは怪獣のような生き物で、知性という物を持っておらず、ただ危険な存在だから隔離している』という仮説だが、これも腑に落ちなかった。 なぜなら、知性を持っていない怪獣のような存在とは、それはもう怪獣なのだ。 わざわざゾネと怪獣を区別する必要が無い。 結局、納得のいく結論は出なかった。 とうとう、テンはあれほど嫌悪していたゾネを見てみたくてたまらなくなっていた。 テンは知識の豊富さにかなりの自負が有った。 もちろんそれは根拠の無い思い上がりなどではなく、名門の学校で教育を受け、絶えず世の中に目を向け、自分なりに学習という事を積み重ねて来た努力によって成り立っている自信だった。 実際、同年代の中でもテンはかなりの博識だった。 そんな自分がまるで分からない事が、ゾネという誰でも知っている知識の中に有った事をテンは驚いていた。 しかし、考えても分からないが自分はこれから嫌でもゾネに会う事になる。 その時になれば何もかも分かるだろうと思った。 好奇心に後押しされたテンの足取りはどんどん速度を増していき、たったの三日でゾネオルバの山の麓に辿り着いた。 テンは山を見上げ、山の様子をよく観察してみた。 岩肌が多く緑は少ないものの、鳥やリスなどの小動物ものんびりと暮らしているし、綺麗な川も流れていた。 全てが暖かい太陽の光に照らされている姿は、子どもの頃によく遊んだダイワーンの山と何も変わらないとさえ思った。 荒れ放題で怪獣が闊歩している魔の山を想像していたテンは、聞いていた話と随分違うなと思った。 さらに山の上をよく観察すると、村のような物が見えた。 『あれだな』 テンは念のために腰にさしていた剣を抜いて右手に持ち、中腹に見えた村を目指して山へ入って行った。 山道は拍子抜けする程、緩やかだった。 怪獣どころか普通の獣さえ出てこないし、現れるといえば蝶々やカエルや野ウサギといった小さな生き物達だった。 途中に大きな池が有ったが、そこにも危険な生き物はおらず、ムッチリと太ったナマズのような魚が幸せそうに泳いでいるだけだった。 テンは、一体これのどこが前人未踏の秘境なのかと思った。 自分が知っている山と何も変わらない、違うといえば池に居るのがコイではなくてナマズだという事。 本当にそれしか違いがなかったのだ。 気を緩めながら歩き続けていると、大きな木がドンと生えている空間に出た。樹齢何百年と有りそうな、立派な木だった。 テンが感心してその木を見ると、その木の根本に、都では見かけない不思議な服と靴を身につけた中学生ぐらいの少女が座っていた。 テンは驚いて身構え、少女もまた驚いた様子を見せたが、お互いに人間だと分かると同時にホッと胸を撫で下ろす仕草をし、思わず微笑み合ってしまった。 『これは失礼しました、驚かないで下さい。慣れない土地なので、用心の為に剣を抜いていたのです』 『ああ、びっくりした。こんにちは』 少女は立ち上がって、テンに頭を下げた。 とても礼儀正しく、そして美しい少女だった。 テンは剣を鞘に納め、少女に尋ねた。 『君は…まさかゾネ…ではないですよね』 少女はきょとんとした表情で答えた。 『ゾネ?ゾネって何ですか?』 テンはその言葉を聞いて安心した。 まさかゾネが人間なはずがないし、ましてやこんな可愛らしい女の子だなんて考えられない事だ、バカな事を聞いたもんだと思った。 『そうか。最近ではその言葉を教える事もなくなったのか』 テンは、自分が特に良い教育を受けていたからこそ、そうした知識を得ていたのだなと思った。 ごく普通の、ましてや田舎で育つ少年や少女はゾネの事など知らないまま成長し、そして死んでいくのだろう。 それが良いのか悪いのか分からないが、とにかくこの少女を連れ去らずに済むという事に喜んでいた。 『実はね、私はこの山に住んでいる悪い生き物を捕まえに来たんだ。そいつはダイワーン国の平和を乱す、とても悪いやつなんだ。君、この辺りに住んでいるみたいだけど、そういうやつを知らないかな』 少女は、もちろんこの辺りにも悪い怪獣も居るかもしれないが、その生き物は知らないと答えた。 『では、この山の中腹に有る村にはどういった者が暮らしているのかな』 テンがそう聞くと少女はやや不信気な顔になって、あそこは私が住んでいる村だと言った。 しかし、ゾネという生き物は知らないし、テンの言うような生き物も居ないと思うと言った。 テンは、まさか目的地を間違えたのかと思った。 しかし、少女と一緒に地図を確認しても、やはりここがゾネオルバの山で間違いなかった。 しかし少女は、ここはゾネオルバという名ではなくチウセの山だと言った。 何が何だか分からなくなったテンは、とにかく一度その村に行ってみるしかないと考え、少女に案内を頼んだ。 少女は『いいですよ』と言って、二人は並んで山を登っていった。 辿り着くと、そこには古い家がぽつんぽつんと立っている小さな村だった。どの家も畑を持っていて、家に併設された小屋にブタやニワトリを飼育していた。 都会育ちのテンは、初めて見る田舎村の風景に感動を覚えた。 家畜と土の臭いにはやや嫌悪感を抱いたが、時間がゆるやかに流れているような雰囲気をテンは気に入った。 『ここが君の村なんだね。穏やかで良い所だね』 テンがそう言うと、少女は微笑んだ。 そして、これからどうするのかとテンに尋ねた。 テンはとりあえず大人にゾネの事を聞いてみようと思っていたので、誰でも良いのでこの辺りの事に詳しい大人はいないかと少女に言った。 すると、少女は『呼んでくるので、少し待ってて下さい』と言い、どこかへ走って行った。 テンはきりかぶの上に座って少女を待ち、今の状況について考える事にした。 ここにゾネは居ないんじゃないかと、テンは思った。 村を見渡してみても、そもそも人は少ないし、他の生き物と言えばスズメか家畜ぐらいしか居ない。 こんな平和そうな所にゾネが居るとはテンにはどうしても思えなかった。 しかし何度か地図を見直しても、やはり場所は間違いないらしく、テンは焦りと苛立ちを感じてきた。 このままでは依頼を達成できないし、それではダイワーン国やトクの期待を裏切る事になってしまう。 せめて、何か有益な情報ぐらいは持って帰らないと、合わせる顔が無いと思った。 しばらくすると、少女がテンと同じぐらいの年頃の青年を連れて戻ってきた。 『こんにちは、私はこいつの兄でショウと言います』 『初めまして、ダイワーン国から来ました。テンです』 テンがそう言うと、少女は不思議そうな顔をし、ショウは笑った。 『何がそんなにおかしいのです?』 『だって、ここもダイワーン国なのに「ダイワーン国から来た」なんて。おかしな人だなと思って』 テンは、それもそうだなと思った。 自分はまるで違う国に行くような気持ちで都を出て、ここに来ている事に気がついた。 これでは自分の方が田舎者じゃないかと、恥ずかしい気持ちになった。 『実は、私は国王からある依頼を受けてここに来たのです。詳しくは言えないのですが、この辺りに凶悪な者が集団で潜んでいるらしいのです。心当たりはありませんか?』 ショウは少女と顔を見合わせてから、そういった者達は知らないと答えた。 隠しているような様子も無く、本当に何も知らないのだなとテンは思った。 『そうですか…。困ったな』 テンは肩を落としてしまった。 その様子を見てショウは、一度自分の家に来てはどうか、もう少し詳しく話を聞かせてくれれば何か分かるかもしれないと言った。 何も手掛かりが無いテンは好意を素直に受け、ショウの家に行く事にした。 妹の方は約束が有ると言って、どこかへ走って行った。 ショウの家はテンからすると、とても不思議な家だった。 三つの部屋の内、一つは兄妹の寝室、一つは食事をしたり話をしたりする部屋。もう一つの一番大きな部屋には、調味料や漬物が大量に入った大きなツボがいくつも置いて有って、家中に少し甘酸っぱい匂いが漂っていた。 テンは、なぜこんなに香辛料や漬物を保存しているのかが気になった。 『ショウさんは漬物屋なんですか?』 テンがそう言うと、ショウは微笑んで言った。 『違いますよ。この辺りの者はこうして自分の家で保存食を作るのです。 面倒ですけど、身体に良いしおかずに困りませんよ。 先祖代々、昔からやってる事なので僕も親からやり方を教わって覚えたんです。風習みたいな物ですよ』 テンは、良い風習だなと思った。 テンには親から何かしらの技術を受け継いだ記憶が無かったのだ。 そもそも、家名以外に具体的な伝統がこれといって無い事にも気が付いた。 良い学校に行かせてもらったり、礼儀作法を厳しく躾けてもらった事は両親に感謝しているが、それは何かを受け継いだと言えるのか疑問だった。 自分は名の有る家に生まれたのだと自負していたが、それを証明する物とは何なのだろうと生まれて初めて思った。 『近頃は作る家も減りましたけどね。やっぱり手間がかかるし』 『良いじゃないですか。やはりこういう伝統とは良いものですよ』 『そうですかね』 ショウは笑ってそう答えた。 テンは、ショウから都の者には無いとても爽やかな雰囲気を感じていた。 ごく自然に生き、作り物ではない柔らかな礼儀や誇りを知っている。 また、特別口に出さなくとも、両親や妹を心の内で大切にしているのがテンには分かった。 『ところで、テンさんの話を聞かせて下さい。何か助けになれるかもしれないですから』 『ああ、そうでしたね。私は都から重要な任務を預かって来たのですが、道に迷ったのか地図が間違っているのか、どうもここでは無いような気がするんです』 テンは地図を見せて、自分がやって来た道筋なども説明した。 『この地図の場所はここに違いないはずですが。やはりそもそも地図のしるしが間違っているんじゃないですか?本来は別の場所にしるしをするつもりが、間違えてここに書いてしまったとか』 『やはりそうでしょうか』 『その凶悪な者達というのは、具体的にどんな連中なんです?働いた悪事などを聞かせてもらえれば心当たりが有るかもしれないですし』 『やつらはですね、ダイワーンの知恵や資源を奪うのです。やがてはダイワーンを乗っ取るつもりだと聞いています』 ショウは首を傾げた。 『どんな事件を起こしたとか、そういう例は無いのですか?具体的にどういう物を盗んだとか』 『最近はこれといって事件を起こしてはないと思うのですが、過去に有ったと聞いていますよ。それが理由で今はある土地に追いやられていると。それが、地図ではここになっているのですが』 ショウはテンの話を不思議そうに聞いていたが、しばらく考えてからこう言った。 『はぁ、そうなのですか。 テンさん、少し的外れな意見かもしれませんが、最近これといって事件を起こしていないのなら、それはもう凶悪な者とは呼べないんじゃないですかね。 過去に何が有ったのか無学な私には分かりませんが、きっと大昔の事でしょう? 先人同士の諍いを取り上げて、その者達の子孫を撃退するなど、とんでもない行為だと思うのですが』 『ですが、ダイワーン国を守る為には仕方の無い事です。これから何かを起こす可能性がある以上は』 『テンさん、その考えは侵略と同じですよ』 『なんですって?』 『その考えは侵略と同じだと言ったのです。 いつか敵になるかもしれないから、今の内に倒しておく。小さなダイワーン国はこれまで何度もその考え方で失敗してきたはずです』 『じっとしているばかりでは、敵の思う壺ですよ』 『本当に敵なんですか?その相手は。会った事もなく、何を考えているかも分からない者が敵だってどうして分かるのですか』 ショウは哀れみさえ含んだ真剣な眼差しでそう言った。 〜つづく〜
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