僕らは風に吹かれて
春に鳴る音 -4(1)

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 日曜日。僕はベッドに寝転んだまま、そばにある出窓の向こうを眺めた。薄灰色の空に、墨汁を落としたような雲が流れていた。雨の音が部屋の中まで聞こえている。屋内から聞く雨の音は嫌いじゃなかった。水滴が地面を叩く痛々しい音は遮音され、丸い柔らかい音に聞こえる。  大学を卒業してから、僕は事実上フリーターになった。週末だけの古着屋でのバイトは平日に三日、土日はどちらか一日だけ、という具合だった。週末をどちらかあけていたのは茉由と時間を合わせるためでもあった。彼女は保育士として渋谷区で働いているので、平日に休みはない。  天気がいい週末は、どこかに行ってインスタグラム用の写真を撮る。この前桜と一緒に撮った写真のように、季節のコーディネートを強調できる場所に、遊びも兼ねていく。街中で映える服を紹介したい場合は、渋谷や新宿の交差点で撮ってもらう。店の前や家のマンションの下で撮った写真は毎日投稿しているが、そうした変化をつけることも大切だ。たまにある絵変わりは人を惹きつけるし、そうでもしないとこちらも飽きてくる。  今日のような雨の日は、大抵茉由が家に来て、二人で映画を観てゆっくり過ごす。さっき茉由から、駅に着いたと連絡が来ていた。  僕の住むマンションは、高円寺駅からまっすぐ北へ歩き、早稲田通りを越えた先にある。五階建ての、高くも低くもないマンションの四階の部屋に住んでいた。  部屋の間取りは1Kだが、長方形の部屋は十畳近くあるので十分に広い。部屋に入った左側にベランダに出られる窓があり、正面にはシングルベッド、そしてその向こうに小さな出窓がある。寝る前はしっかりカーテンを閉めておかないと、朝眩しい思いをすることになる。  部屋の右側には奥に二メートルある大きな本棚と手前に低いテレビ台があり、部屋の中央には膝までの高さの小さなテーブル、二人がけのソファが置いている。天井からは、家の近くにある古物商で買ってきた、真鍮のランプシェードを吊るしてある。電球はLEDよりも白熱灯のほうが光が柔らかい気がして、好んでつけた。  本棚のそばには、スタンドにかけられた二本のベースがある。一本は高校生の頃に父からもらったYAMAHA。落ち着いた赤茶色のボディに黒のピックガードがついた、スタンダードなモデルだ。最近弾いていないので、少し埃をかぶっていた。  もう一本はバックビーターズでベースを本格的に弾くようになった頃に、自分で買ったFenderのベースだ。楽器屋で何本も試奏して、これが一番しっくりきた。だけど値段が高かったから買うのには勇気が必要だった。税込で二十一万。フリーターの身分には大きな出費だったが、今も買ったことを後悔してないので良い楽器を見つけたと思う。メイプルのボディは碧緑へきりょくにラッカー塗装されていて、見た目も気に入っているし、音も下から上まで淀みなく出る。この前ハルに音を褒められた時は嬉しかった。  窓を叩く雨の音がして、僕はもう一度出窓に視線を送った。出窓がある家は珍しいし、賃貸ともなるとなおさらそうだと思う。むき出しのステンレスの窓枠はいささか冷たい印象を与えるかもしれないが、出窓があるだけで部屋にたっぷり余裕が生まれる気がする。僕がこの部屋の中で、一番気に入っている部分だった。  窓台のスペースには、以前ピックケースとして使っていた蓋のない浅い缶のケースがあり、その中に榊原さんからもらった百円玉のエラーコインを入れている。神棚はなかったので、窓台に置いていた。両面がオモテ面になっているその百円玉は、見れば見るほど不思議な魅力があった。厚さは普通の百円玉と同じだが、まるで貼り付けたように両面に同じ桜の花の絵柄が刻印されている。ベッドにいる時には、たびたびコインを手にとって、しばらく眺め、そして缶の中に戻すということを繰り返していた。  窓台の上は缶のケースが置いてあるだけでスッキリしているが、部屋全体としては雑然としている傾向があった。五年以上同じ家で暮らしていると、自然とものが増えてくる。どこかでもらったボールペンや何かと何かを繋ぐコード、公共料金の領収書などが本棚の空いたスペースに無造作に置かれていた。他にもクローゼットに入りきらなかった服の一部が、部屋の隅に畳んで積み上がっている。  ものを捨てるのは難しい。以前一度、古いものから順に捨ててしまえばいいのだと思ったことがあった。部屋にある一番古いものは何かと考えてみるのは、興味深いことだった。そして行き着いた答えは、父からもらったあのベースだということだった。あれはさすがに、捨てられない。あのベースがあったからこそ、蓮にバンドに誘われた今の僕に繋がっているのだ。だけどそんなこと言いだすと、結局何も捨てられず、僕は断捨離を諦める。  久しぶりにYAMAHAのベースを持ち上げて、ストラップを肩にかけてみた。今使い慣れているベースよりも一回り小さくて、フレットに触れた感触がいまいち手に馴染まない。慣れって不思議だ。高校生の頃はこのベースで、ディランやザ・バンドのベースフレーズを弾いていたのだ。  僕はベースを肩にかけたままベッドに座って、この前練習したノベルコードの曲を弾いてみた。いわゆるJ-ROCKらしい八分音符のフレーズ。もしベースに意思があれば「今はそんな曲弾くようになったんですか?」と驚いているかもしれない。  しばらく弾いていると、インターホンが鳴った。モニターに、手を振っている茉由が映っている。一階のオートロックの鍵を解錠し、僕は扉の前で茉由を迎えた。 「雨、大丈夫だった?」 「うん。思ったより強かったよー」  茉由は玄関の扉の前に傘を立てかけて、スニーカーを脱いだ。靴下まで湿っているようで、洗面所までのフローリングに彼女の足跡がついた。 「パソコン、テーブルに置いてるから好きな映画選んで」 「ありがと」  手を洗った茉由は、靴下を脱いでからパソコンの前に座った。  僕らは二人とも映画が好きだから、よくNetflixの一覧の中から選んで映画を観ていた。 「この前観た映画、監督の名前なんだっけ? 同じ監督のやつ観たい」 「ウディ・アレンだね」  ウディ・アレン、と茉由は繰り返しながらキーボードを打ち込む。 「お酒飲むよね?」 「うん。何がある?」 「この前買った白ワイン残ってるよ」 「それにする」  家ならアルコールを片手に映画を観ることもできる。映画館でも飲める場所はあるが、トイレに行きたくなっても気軽に行けない。 「ジャーマンポテトあるんだけど、お腹空いてる?」 「食べたい。ありがと」  話しながら、僕は冷蔵庫からジャーマンポテトが入った皿を取り出し、レンジで温める。朝作っておいたのだった。乱切りにしたじゃがいもとスライスした玉ねぎ、それからベーコンをニンニクとオリーブオイルで炒めた。胡椒を多めに振って、最後にギャバンのパセリを振った。  料理は嫌いじゃなかったし、誰かがそれで喜んでくれるのは嬉しかった。  テーブルの上にグラスを二つとジャーマンポテト。中心にノートパソコンを置いて、二人でソファに座る。部屋の電気を消して映画を再生すれば、二人専用の小さなシアター・バーになった。  茉由はウディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」を選んだ。タイトルのとおり、映画の舞台はパリだ。過去の時代に憧れる主人公が、気づかないうちに過去の世界へ迷い込み、尊敬する失われた世代の偉人たちと会えるという、夢のある映画だった。ヘミングウェイやスコット・フィッツジェラルド、ピカソといった有名な作家や芸術家が現れ、主人公は彼らからアドバイスをもらう。  「パリ、いつか行ってみたいなぁ」  映像の中の、美しいパリの景色を観ながら茉由は言った。  映画は終盤を迎え、主人公は過去の時代への憧れなんてものは、いつの時代に生まれても持つものであることを知る。つまり、憧れは憧れでしかない、無い物ねだりなのだ。  この映画の言いたいことがそうだと気付いたところで、僕は少しだけ胸が痛くなった。僕も古いものが好きで、この主人公と同じ思いでいたから。  百二十分のパリの世界が終わり、僕らは一息ついた。皿にあった山盛りのジャーマンポテトは空になって、胡椒の黒い粒だけがこびりついている。ワインはボトルの四分の一くらい残っていた。アルコールが、いい具合に体を巡っている。 「いい映画だったね」 「そうだね」と茉由が言った。 「湊は、色々とこの映画から学ぶことがありそう」 「学ぶこと?」 「憧れは、結局は憧れに過ぎないってことだよ」  同じことを思っていても、わざわざ人に言われると納得しがたい気持ちになる。でもそれを態度に出すのも子どもっぽい気がしたので、僕は口元で小さく笑っておいた。 「実際に行ったら、想像とは全然違うんだろうね。……それに僕らは今、誰も経験したことがないくらい、大きな変化の中にいると思うよ」  僕はさっき、映画を観ながら考えていたことを話し始めた。 「バンドも始まるしね」 「うん。それもそうだけど、もっと世界的に大きな変化が起こってるってこと」 「急に大きな話するじゃん」  茉由は薄く笑ってから、グラスにわずかに残っていたワインを飲み干した。話に興味を失くしたのか、立ち上がってグラスと皿をキッチンのシンクへ運ぶ。部屋が暗いので、一瞬彼女の姿が見えなくなる。 「いや、みんな気づいてないんだよ。だっておかしくない? 当たり前になってるこのスマホだって、僕らが子どもの頃はなかった。SNSなんて、一つ新しい国っていうか……世界があるみたいで。だから僕らは、そんな変化にちゃんとついていかなきゃいけない」 「湊はついていってるじゃん。SNSを仕事にするなんて、かなり現代的だし」  茉由はシンクに置いた食器を水を浸すだけして、戻ってくる。 「そうだけど。あと僕は、音楽も今の時代のものに目を向けなきゃいけないと思った」 「今の時代の音楽?」  そう言いながら、彼女は僕の横に座った。 「うん。プロとしてバンドをやるなら、そういう音楽も聞かないとなって。この前音を合わせたら、想像以上に気持ちよかったし」  蓮、ハル、テツ。みんなの音と歌が合わさる感覚は、言葉にしがたい快感があった。早く、もう一度やりたいと思うほどに。 「湊は色々できてすごいよ。器用だと思う」 「この時代を生きていくためには、色々できないとだめなんだよね」  僕は少し酔っていたこともあって、いつもより饒舌になっている感覚があった。そんな僕を覗き込んでいる茉由の目は、まるで月のない闇夜のように奥行きが曖昧で、そこから何を思っているのかは汲み取れなかった。 「私も、そんな風に何かできたらいいんだけどなぁ」 「茉由だってしっかり仕事してる。保育士だって、誰にでもできることじゃないでしょ?」 「そうだけど。でも、もうちょっと給料があってもいいかなって思うなぁ」  不満そうに言う茉由がなんだかおかしくて、僕は笑った。  茉由は僕のももの上に手を置いた。僕はその手に右手を重ねる。茉由は僕の手を引き寄せながら、ソファの上で横になった。上から見た茉由は、少し頬が紅潮して見えた。僕は彼女の体温に着陸するように、滑らかな首筋にゆっくりと口をつける。茉由は小さな反応でそれに応えた。鼻腔が彼女の皮膚の匂いで満たされていく。唇と唇が触れ合うと、果実酒の匂いがした。  暗闇の中、外から微かに雨の音が聞こえる。さっきより雨脚は弱まっているようだった。

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