光の中で目を覚ました。ずっと長い夢を見ていたような気がした。どんなものだったかは、もう思い出せない。記憶の中の手の届かない場所に、誰かが隠してしまったみたいだ。 自分がどこにいるのか確認する。 ベッドの中。三角屋根の高い天井には太い梁が見える。 僕はのそのそとベッドから出て、木の床に足をつけた。ひんやりとした感触がして、足の裏が自分の身体の一部であることを思い出したようだった。 レースのカーテンの隙間から見える窓の向こうには、白い景色が広がっていた。 扉が少し開いている。さっき起こしに来てくれたのかもしれない。僕は部屋を出て、階段を降りていく。卵を焼いた、香ばしい匂いが漂っていた。 一階は階段を降りた先がキッチン・ダイニングになっている。キッチンに立っている美里さんが、僕の足音を聞いて振り返った。 「あ、おはよう」 「……おはようございます」 「どしたの、その顔」 彼女は僕の顔を、チラリと見て言った。 「どんな顔してますか?」 「うーん。まだ夢の中って感じ」 「……そのとおりだと思います」 僕の言葉に、彼女は小さく笑った。 「ご飯、ありがとうございます」 テーブルの上には二人分の食事が用意されていた。茶碗に入ったご飯と味噌汁。焼き鮭がのった皿には、ブロッコリーと梅干が添えられている。 「そろそろ起きてくると思って。どうぞ座って」 僕は言われたとおりに座った。 「早寝早起き。もう慣れたでしょ?」 「……夜起きてても、やることないですし」 やることがないから、嫌なことばかり考える。……だったはずなのに、ここ数日、僕は不思議と眠れるようになっていた。朝も、部屋が明るくなると自然と目が覚める。遮光カーテンじゃないからだろうか。健康的なサイクルだった。 彼女は卵焼きがのった皿をテーブルの上に二つ置いて、僕の前に座った。食べ物を眼の前にして、自分の内臓が一気に活動を始めている気がした。体は素直だ。 「寝起きでも、食べられる?」 「はい」 僕の返事に、彼女は微笑んだ。 「じゃあ食べよ」 「……なんか、すみません。ありがとうございます」 「いいよ、これから私が助けてもらうし。そろそろ、家の中にいるのも飽きたんじゃない?」 「……そうですね」 味噌汁が入ったお椀を左手で持って、口をつけた。優しい味。体に染み込んでいくようだった。 炊きたての湯気がたったご飯。口に入れると、噛めば噛むほど甘みが出る。ご飯ってこんなに美味しかったんだ。当たり前過ぎて、忘れかけていたことがたくさんあるようだった。 正面に見える昔ながらの古いキッチンは、L字型になっていて機能性がよく考えられている。正面にふた口のコンロがあり、その奥にある棚には数種類の鍋やボウル、調味料が並べられている。棚にはおたまやフライ返しが取り出しやすいように引っ掛けられていた。 僕はふと、美里さんと向き合って食事をしたのは、いつぶりだろうかと思った。 「美味しいです」 「良かった」 目が合って、美里さんはうっすら微笑んだ。食事の間にした会話はそれだけだった。だけどなぜだか気詰まりに感じることはなくて、家族といるような安心感があった。 出会った時からそうだった。美里さんに見つめられると、心まで見透かされているような気がして、もう何も隠さなくていいような気持ちになる。黒い瞳は光を反射すると、少女のようにキラリと輝いた。彼女は僕より四つ年上なのだが、そうは見えない。 僕は彼女の顔が好きだと思う。見れば見るほど、どうしてそれを自分が美しいと思うのだろうと考え、目が離せなくなる。まるで絵画や彫刻を見ているような感覚に陥る。胸まで伸びた髪の毛はたっぷり日焼けして、脱色して毛先が逆立っていた。 「ごちそうさまです」 食べ終えて、手を合わせて言った。彼女も同時に食べ終わった。 僕は二人分の食器をシンクに運んだ。洗い物くらいはさせてもらいたい。彼女も僕の気持ちをわかっているから、止めたりしない。 料理に使った鍋やフライパンがあったから、それも一緒に洗った。蛇口をひねると出てくる水が冷たくて気持ちいい。山から直結の自然の水だ。美里さんは僕の横に立って、僕が洗った食器を拭いてくれた。 「今日は外に行こっか。もう、大丈夫だろうから」 洗い物が終わると、彼女はにわかにそう言った。 「……はい。何か持っていくものありますか?」 「何も。もうあったかいし」 美里さんは玄関の靴箱の上に置かれた麦わら帽子をかぶった。 引き戸を開けて、彼女は外に出る。 僕も続いて、手ぶらで外に出た。 自然の中で、太陽の光が降り注いでいた。透き通った柔らかい青を含んだ空の下、遠くの山々に咲いたばかりの花が色を落としていた。まるで春の日を閉じ込めたような景色だった。 僕は生きている。当たり前のことなのに、なぜか涙が出そうになった。 家から出てすぐ前にある坂を、美里さんは下っていく。僕は少し遅れてついていく。 「順番に教えるよ。さっきも言ったけど、春はやることがたくさんあるから」 「やること?」 「そう、たくさん働いてもらう」 「僕、まだわからないんです。やっぱり不安も……」 「何も、考えなくていいよ。体だけ動かして。そしたらいずれ、分かるから」 美里さんは振り向いて笑った。笑うと、そこに一輪の花が咲いたみたいだった。僕らの間に、優しい風が吹いた。 「……やっぱりまだ、夢の続きみたいです」 「不思議だよね。何もかも」 「不思議です」 美里さんは少し考えて、それから何かを思いついたような顔をした。山々をバックに、両手を広げる。 「ワンダーランドへ、ようこそ」 太陽の光を浴びながら、彼女は言った。
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