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 翌朝目を覚ますと、小夜子の頭の中にはまだ志乃の姿があった。昨夜はすぐに眠りに落ちたから『月読の掟』は開いていない。不思議に思い、枕にしていた風呂敷包みを解いてページをめくった。「志乃の章」はたしかにあり、流し見たところ同じ内容だった。 「どういうこと?」  疑問を口にはしたが、心のどこかで「まあそういうこともあるのだろう」と考えている自分がいて戸惑った。 「小夜子どの、お目覚めですか。支度が整いましたら出立いたしましょう」  神楽とタエは既に起きていて進む先を見つめていた。  寝る前は暗くて見えなかったが、天つ山が目前にせまっていた。富士山に似ていると思ったが、小夜子は実物を見たことがないので、本当に似ているかどうかはわからない。富士山よりもほんの少しとがっていて、その分高いような気もする。  天つ山のふもとから中腹にかけて、緑が生い茂っている。この土地には豊かな水が行き届いていることが一目でわかった。森の手前の原っぱに立ったとたん、三人は歓声を上げて走り回った。土はやわらかく、空気は青くさい。そんなことが、とてつもなく幸せに思えた。 「うわぁ! なんですか、これは!」  神楽が大きく飛び退いた。そこには小さな虫がピョンピョン跳ねていた。 「なーんだ、バッタじゃん」  小夜子は手のひらを丸めてバッタを追いかけた。 「さ、小夜子どの、なにをしておられる。そのようなものをつかまえて、どうするのです?」  神楽はへっぴり腰で小夜子の手元を見ている。バッタをつかまえた小夜子はニヤリとした。 「こうするのよ!」  そう言って、神楽に向かって投げた。 「うぎゃあ!」  神楽ははるか彼方まで逃げていく。投げられたバッタは、羽を広げて少し先まで飛んだ。遠くで神楽がギャーギャー騒いでいる。また別の虫を見つけたにちがいない。 n草木の生えない土地では、虫などいないはずだ。初めて見る虫たちに、神楽はへとへとに疲れさせられることだろう。  タエは管狐を竹筒から出してあげていた。管狐は、神楽と対照的に落ち着きはらって、あたりの探索に出かけていった。 「タエちゃん、あの管狐ってなんなの?」 「うーん。なんだろうね。本当は狐使いの命令を聞いて、手伝ったりするみたい」 「みたい?」 「管狐の能力は狐使いの霊力とつりあうようになっているらしいんだけど、わたし、そんな力ないから……。わたしにとっては飼い猫みたいなもんっていうか……」  タエは肩をすくめた。 「でも、タエちゃんって、いろいろ不思議な体験をしてるんでしょ?」 「そうだけど、それと霊力は関係ないんじゃないかな。お母さんとかおばあちゃんは占いができるんだけど。でもそんな力なくてもいいの。管狐ってあまりよく思われないから。とりつかれて狂ったり死んだりすると思われてるから」 「そ、そうなの?」  小夜子は少しおそろしくなった。 「うん。昔は狐使いもそれを利用してたんだって。管狐を人に憑かせておいて、その人を治すと言って、今度はその管狐を放すの。それで治したお礼をもらうってことをしてたらしいよ」 「えー。詐欺じゃん」 「まあね。狐使いしだいってとこかな」 「タエちゃんの管狐はそんな悪い力があるようには見えないけど」 「うーん。どうなんだろう。昔はいろいろやっていたみたいよ。ね?」  タエは竹筒を覗き込んだかと思うと、焦ったように辺りを見渡した。 「タエちゃん? どうしたの?」 「管狐がいなくなったの!」 「えー。またあ?」  岩隠れの谷でも勝手に行動したばかりではないか。狐使いは管狐を使役しているというけれど、タエの言う通り、まったくもってただのペット同然だ。 「ごめん、小夜子ちゃん。わたし、探してくる」 「わたしも手伝うよ」 「ううん。神楽さんが戻ってくるかもしれないし、小夜子ちゃんは待ってて」  言うが早いかタエは草をかき分けながら遠のいていく。  小夜子は草の上に腰を下ろした。久しぶりの緑だ。土と植物のにおいがする。  しばらくは鳥の声を聞きながら寛いでいたが、なかなか二人は戻ってこない。  急がねばならない旅だとわかっていはいるが、小夜子までこの場を離れたら再会するのが難しくなる。二人だって急いでいるのはわかっているはずだ。そのうち戻ってくるだろう。  そんなふうに自分に言い聞かせたのは言い訳でもあった。残り僅かな『月読の掟』の続きが気になっていた。 「神楽ーっ! タエちゃーんっ!」  声の限り呼んでみても返事がない。  小夜子は大きなため息をひとつこぼすと、『月読の掟』を開いた。

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