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 小夜子と神楽は、できたての水源に手を浸した。 「つめたーい」  と小夜子。 「なんと美しいのでしょう」  と神楽は水をすくう。  ふたりは顔を洗い、水を飲み、ほっとひと息つく。 「小夜子どの、見事でございました。まことにありがとうございます」  神楽は深々と頭を下げた。 「やだ、やめてよ。一緒にここまで来たんじゃない。神楽もわたしも同じよ」  小夜子は顔が赤らむのを隠すため、また顔を洗おうと両手で水をすくった。ところが、その水はたちまち球体に固まった。 「な、なに?」  両手で包みこめる大きさの透明な珠。向こう側からのぞく神楽の顔がゆがんで映った。 「竜の珠でしょうか?」  おそろしいのか、神楽は手を触れようとしない。 「だとしたら、竜の忘れ物ってこと? それって、ちょっとまぬけじゃない?」 「うーん」  そうしているうちに、珠は白く濁り始めた。小夜子は気味悪くなって、そっと地面に置いた。珠はますます白くなり、ついには全く透けなくなった。  ピシッ。  珠にひびが入った。ふたりは息をつめて、珠を見つめる。  ピ、ピシッ、ピシッ。  ひび割れたわずかなすき間から、ふた葉が生えた。 「あ」  小夜子と神楽は顔を見合わせ、声をそろえて言った。 「具楽須古の種!」  それを合図に、ふた葉はぐんぐん伸びていき、太いつるとなり、葉を繁らせていく。みるみるうちに天つ山の頂上を越え、天高く伸びた。  なん本にも枝分かれしたつるは、互いにからまり合い、太い木の幹のようだ。まるで、天に昇る螺旋階段である。もはや、その先端を見ることはできない。これこそ具楽須古の種なのだと確信が持てた。  ふたりは無言のまま、立派に育った具楽須古を見上げた。足元ではチョロチョロと水の流れる音がする。  別れの時が来たのだ。きっと、これを登って行けばいい。わかっていても、小夜子は具楽須古に触れることさえできずにいた。 「……小夜子どの」  小夜子の後ろ姿に、神楽が静かに呼びかける。 「わかってる」  小夜子は背を向けたまま、ぶっきらぼうに答えた。 「小夜子どのは、岩根峡の絶壁の道や石橋を通ってこられたのです。こんなつるを登るくらいで怖がることはありません」 「怖がってなんかいないもん」 「それなら……。小夜子どのは元の世界に帰るために、これを求めて旅してきたのですよ」 「だから、わかってるって」 「具楽須古は驚くべき早さで成長しました。ということはですよ、枯れるのも早いかもしれません。ためらっている場合ではございません」 「わかってるってば!」  小夜子は怒鳴った。 「あんたって頭くるわ、神楽。なんで平気でいられるの? そりゃあ、帰りたいわよ。帰るためにここまで来たわよ。でも……あんたと、さよならしたくないの!」  小夜子はくるりと振り向き、神楽をにらみつけた。神楽は目をうるませ、くちびるをかみしめていた。小夜子の目から怒りの色が消えた。 「神楽……」 「小夜子どのは、わたしがなにも感じていないと思っておられるのですか? 短い間でしたが、わたしには大切な時間になりました。異形なる者がほかの方でなく、小夜子どのでよかったと思っております」  小夜子はなにも言えなかった。神楽の目から涙が一粒落ちた。 「しかしながら、小夜子どのは帰らねばなりません。このまま残れば、またふたつの世界の入口は閉じられてしまうにちがいありません。あちらの世界に小夜子どののような方がいてこそ、わたしたちの暮らしがあるのです。今回のことでそれがよくわかりました。ですから、この岩戸を再び閉じるわけにはいかないのです」  小夜子はうなずいた。 「うん。わかってる」  岩屋から流れていく水を目で追う。喜びに満ちた多々良村の様子が目に浮かぶ。自分と神楽の旅の成果だ。  小夜子は具楽須古の太いつるに手をかけた。 「神楽、わたし、ここに来ることができてよかった」 「はい。わたしも小夜子どのの案内役ができてうれしかったです」  ふたりは握手するでもなく、しばらく立ちつくした。先に口を開いたのは神楽だった。涙は乾いているが、目が赤い。 「……小夜子どの、そろそろ」 「うん。じゃあ」  小夜子は精いっぱいの笑みを浮かべた。神楽が小夜子を思い出す時、笑顔を思い浮かべてほしいから。けれどもすぐに鼻の奥がツンとして、目の裏が熱くなった。決心がにぶらないうちに、小夜子は具楽須古を登り始めた。  神楽の鼻をすする音が聞こえる。小夜子はつるをしっかりつかんだまま、下を見た。神楽の姿が小さく見える。足がすくみそうな高さだ。もうすぐ声が届かなくなるだろう。小夜子は声の限りに叫んだ。 「神楽ぁ! あんたのこと、忘れないから! ここのことも忘れないから!」  涙が流れてきた。けれども手を離してぬぐうこともできず、流れるままにした。 「小夜子どのぉ!」  下から神楽の声がする。 「わたしも忘れませんっ!」  両手を大きく振っている神楽の姿を目に焼きつけ、小夜子はさらに登っていく。  天つ山の山頂よりも高くなり、雲の中へと入っていく。雲の中は真っ白で手元さえ見えない。小夜子はつるに沿って手を滑らせながら登っていく。雲の向こうに太陽があるのだろう。あたりの白さが増した。強い光に目がくらむ。まぶしさのあまり頭痛がする。頭の中がぼんやりしてくる。  あたり一面の白い光に包まれて、小夜子の意識が遠のいていった。

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