具楽須古の種(ぐらすこのたね)
〈月読の掟 志乃の章 其の二〉

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 岩屋。もともとそこは大きく口を開けた岩屋だったらしい。志乃はそのころのことを知らない。志乃が初めて目にしたときには、岩屋の入り口に岩戸が立ちふさがり、穴を半分ほど隠していた。  この岩屋の奥に異界があるはずだった。といっても岩屋の中にあるわけではない。この世界と同じように空があり、どこまでも続く異界が広がっているらしい。  踏みならされた道をたどり、岩屋が見えてきた。その前に大男があぐらをかいてうなだれている。雲海だ。志乃は近づきながら声をかけた。 「雲海さん……」  雲海はゆっくり振り向き、志乃を認めると力のない笑みを浮かべた。  志乃は雲海の隣に膝を立てた。同じように座ると低くなりすぎるからだ。立て膝くらいが、ちょうどあぐらをかいた雲海と同じ高さだった。  目の前の岩戸はもうほとんど閉じかけている。志乃のような娘ならどうにか通れるが、雲海ほどの大男では体を横にしても通れない。人間の男でもむりかもしれない。 「志乃、とうとう異界との戸が閉じてしまうよ」  志乃は雲海の頭を優しくなでた。ごわごわの髪から、象牙色の突起がのぞいている。  雲海は鬼だ。異界の住人だ。月読の贄の受け取り手だ。けれども実は雲海は贄など必要としていないことを志乃は知っている。  五年前の月読の祭では、お信が穢れていたために突き返されたということになってしまった。しかし、志乃には納得できなかった。お信は、鬼が逃がしてくれたと言ったのだ。  翌日、村の男衆が、姿形の変わってしまった贄が鬼に受け取られたかどうかを確かめに行くとき、志乃はこっそり後をつけた。たいていの村人は石舞台の場所を知らず、志乃も例外ではなかった。だれかについていかないと石舞台にたどりつけない。  贄が石舞台から消えていることを確認した村人が去ると、志乃は木の陰から出て石舞台をよく見ようと足をふみだした。  そのとき、山の奥から嗚咽が聞こえてきたのだ。志乃は声の聞こえる方へと向かっていった。  そこにいたのが雲海だった。作られたばかりの墓の前で、大きな体を丸めて泣いていた。そのことに説明はいらなかった。  やはり鬼は贄を逃がしたのだ。だが、無残な姿で再び捧げられたのを見つけてしまったのだ。  鬼は墓を作った。村人たちが長い間、大きな勘ちがいをしてきたことに志乃は気づいた。贄など必要なかったのだ。  志乃はその鬼の隣にしゃがんで、墓に手を合わせた。鬼は驚いた。 「おまえ、こわくはないのか?」  志乃は微笑みながら首をかしげた。 「こわがってほしいの?」  それがふたりの出会いだった。志乃がこわがっていないのがわかると、鬼は雲海と名乗ってから心の内を明かした。 「あの娘を村に帰したのがまちがいだった。まさかこのようになろうとは……」 「あんなことになるなんて思いもしないもの。でも、いままでの贄は帰ってこなかったけど?」 「この先に岩屋がある。そこはおれの故郷とつながっているんだ。そこへ逃がしてきた。おびえて話すどころじゃないから、襲うふりをして岩屋に追いこんだこともある」 「故郷って……異界ってこと?」 「そうなるな。おれらからしてみれば、こちら側が異界だがな」 「お信さんはその岩屋に行かなかった……」  雲海はうなずいた。 「すっかり腰がぬけていた。だからおれが運んでやるしかなかったんだ」 「それなら、村へこなくても岩屋に連れて行けばよかったじゃない」  雲海は申し訳なさそうにうなだれた。 「そうなんだが、岩屋には戸があって、年々入り口がせまくなってくる。岩戸が動いているんだ。娘たちは通れても、おれの体じゃ大きすぎて、あの娘をおれたちの村、多々良村まで連れて行けなかった……」 「それって、雲海さんはもうその多々良村に帰れないってこと?」 「そうだよ」 「どうして岩戸が閉まる前に帰らなかったのよ?」  雲海は微笑んだ。鬼とは思えない仏のように慈悲深い笑みに、志乃は見とれてしまった。 「人が好きだからだよ」  鬼の寿命は長く、雲海は志乃の何世代も前の人々を知っていた。 「あのころは人々となかよくやっていたものだ。天狗や河童も人々の前に姿を現した。おれたち鬼もな。当時の人は鬼がおそろしいやつだけではないと知っていた。鬼を迎え入れてくれる村や里もあって、そうしたところではこの体と力を生かして材木を運んだり、橋を架けたりしたものさ」  幸せそうにくうを見つめている。雲海にはまだその光景が見えているのだろう。しかし志乃には散っていく木々の葉しか見えない。 「そのころのことが忘れられなくて多々良村に帰らないの?」 「ああ。だが、まちがいだったんだな。人は変わっていく。そのことに気づいていなかったんだ。おれが残ることでこんな残酷なことが行われるとは思いもしなかったんだ」  雲海は口を一文字に結び、眉を寄せた。顔のしわが深くなる。苦しみにゆがめられた表情は、志乃の心をも苦しくさせた。雲海の大きくごつごつした手を志乃はそっと両手で包みこんだ。 「鬼はこんなに人を思っているのに、どうして人は鬼に同じ思いをいだけないのかしら」  志乃は知らず知らず涙を流していた。  ふたりが夫婦になるのに時間はかからなかた。  岩屋から生温かく湿り気を帯びた風が吹いてくる。これが異界の、多々良村の風なのかと思うと、志乃はそれまでもいとおしく思えるのだった。  鬼は人の方だ。みんなが思っている鬼は、人の心の中にこそすんでいるのだ。こんなに心痛めている雲海を極悪非道のように言うなんてどうかしている。だれもほんとうの雲海の姿を知ろうとはしない。 「さっき善さんに会ったわ。都では異界に帰れなかった者があふれているって」  雲海は深くうなずいた。 「都では陰陽師が人ではない者を退治しているらしい。だが、おれたちは人を敵視していない。しいたげられるから抵抗するだけだ。そのことで悪さをするあやかしと言われてはたまらないよ」 「そうね。わかるわ」 「でも、そうやって恐れられ憎まれているうちはまだましだ。存在を認められているのだからな」  志乃はなにも言えなかった。それではあまりにも悲しいではないか。そうはいっても、たしかに鬼やあやかしがこの世にいられるのは、人がその存在を認めているからにほかならない。人々が信じないものはこの世において存在しないのと同じなのだから。 「善さんはこうも言っていた」  雲海は彫りの深い顔をゆがませた。 「陰陽師のせいで都から鬼たちがいなくなって、すでに信じる人は少なくなっているらしい」 「都にいづらくなった鬼たちが異界に帰っていくからね?」 「そうだ。ただし、都の近くにあった異界への道はとうに閉ざされていると聞く。だから、まだわずかに残された地方の道から帰っていく。この岩屋もそのひとつだ」  近ごろ百鬼夜行が増えたとばばさまが言っていた。数日前には草太も見たと興奮気味に話してくれた。きっと草太の目には鬼たちが我が物顔に闊歩しているように見えたことだろう。志乃は草太の話を聞きながら、列をなして逃げ帰っていく鬼たちの悲しみを思い、胸が苦しくなった。  けれどどう見えようとも、存在を認める人がいることが大切だ。雲海の話によれば、この岩戸は人々の信じる心が形をなしたものだという。信じる人が減ってきたために、岩戸は閉じようとしているらしい。  なぜみんなは気づかないのだろう。異界も異国と同じなのに。行ったことがなくても異国があることは信じるのに、異界は信じないなんておかしい。自分が知らないだけで、異国も異界も存在はしているのだから。  雲海は日が沈むまで岩屋の前で、故郷から吹く生温かい風を感じていた。志乃はそれを見守ることしかできなかった。

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