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 大天狗は神楽の真剣な眼差しを前にして、ただ一言「うむ」と答えた。神楽は小夜子の方に向き直った。 「小夜子どの」 「はい」  勢いに押されて、小夜子は姿勢を正した。神楽はさとすようにゆっくりと話し出す。 「いいですか? わたしには、小夜子どのがしようとしていることができません。想像とか空想といった言葉は知っていますが、それがどのようなもので、どのようにすればできるのかについては、全くわかりません。この世界の者にそのような力はないのです」 「……え?」  小夜子は神楽の顔をまじまじと見た。角は生えているし、水干狩衣なんて着ているけど、それ以外は小夜子となにも変わらない。なのに想像できない? 空想できない? 信じられない。そんなことって……。  小夜子ははたと気がついた。でもわたしもそうだった。それで困ることもなかったし、むしろ大人っぽい子だと言われていた。そんなわたしが今ここで大きな役目を果たすことになるなんて……。 「……わかった」  そうは言ったものの、今まで空想にふけったことなどない小夜子には、どうすればいいのか見当もつかない。神楽となんら変わりはない。だけど、小夜子は使わないだけで、その力を持っているのだ。  小夜子は再び岩戸に手をついた。目を閉じ、岩戸が開くところを思い描く。しかし、想像の中でさえ、岩戸はびくともしない。思い描いたものが、シャボン玉のように浮かんでは消えていく。一生懸命になればなるほど、その光景は、はかなく薄らいでいく。体を動かしているわけでも、力を入れているわけでもないのに、大粒の汗が額を伝う。  タエならどうしただろう? この世界に迷いこんだことをすんなり受け入れたタエ。タエなら簡単にできたにちがいない。タエこそ異形なる者だったのではないだろうか。 「タエちゃん……」  思わずつぶやいた。 「タエちゃん……力を貸して」  今ここにタエはいないのだ。小夜子がなんとかするしかない。天狗の通力にも勝る力を持っているのだと信じて。  心の中で薄らいでいく光景を何度か見届けた後、一息つくために目を開けた。すると、そこには薄らいでいく神楽と大天狗が見えた。 「やだ……」  小夜子はおびえたように体を震わせた。  大天狗が弱々しい声でうったえる。 「ひたすら信じるのだ。異形なる者よ、われらの世界を消さないでくれ」  続けて神楽もなにか言った。だが、口が動くだけで、声は溶けて消えていく。ふたりの姿はもはや、向こうが透けるほどに薄くなっている。  消える? この世界が? 今ここにいる神楽や大天狗もいなくなってしまうというの? 天つ山も多々良村も全てなくなってしまうと?  多々良村の貧しいがどこか懐かしい光景が思い起こされる。かごめかごめを楽しむ村の子供たち。芙蓉、碧落。笹の庵で白狐に姿を変えてみせた巫。星の林、空音の峠、岩根峡と岩隠れの谷……。どの景色も、どの人たちもあざやかに思い出される。まるで今ここにあるかのようにはっきりと。  全てはたしかに存在し、小夜子のまだ見ぬ世界も広がっている。それらは、小夜子がここを離れても、やはり存在し続ける。そのことは懸命に思い描くまでもなく、ゆったりとした呼吸に合わせて心の中に浮かんでくる。  小夜子は、心の中がふくらんでいくような感覚をおぼえた。体がふわりと軽くなる。  ――ゴッ。  石のこすれる音がした。神楽が後ろで息を飲んだのがわかった。小夜子は再び目を閉じ、岩戸が軽々と左に滑るところを、まぶたの裏に映し出した。  ゴゴゴゴゴ……。  岩戸が動き出したのを感じた。  しかし岩戸は、手を入れるすき間さえできないうちに、再び動かなくなってしまった。小夜子はいつしか止めていた息を大きく吐いた。  頬にかすかな湿り気を感じる。わずかに開いた岩戸のすき間から白い気体がゆらめきながら流れ出している。薄らいでいく神楽と大天狗の前を流れ、大きなベールとなって二人の姿を見えなくした。あたりは濃い霧に覆われた。  それはとても神秘的な光景だった。後方から射す日の光が、遠く広がる霧のスクリーンに山の影を映し出している。その手前にほんやりと人影が浮かび上がった。  小夜子は目をこらした。人影は丸い虹に囲まれている。後光射す神仏の姿そのものだ。  あれは、なんだろう……。  声をたてるのもはばかられて、小夜子は心の奥底でそっとつぶやいた。  いにしえの修験者がこれを見たなら、神仏が降臨したと思うにちがいない。しかし、小夜子にはそれほど信仰心があるわけではなく、ただただ不思議に思うだけだった。  そっと右手を上げると、遠くに向かい合っているその人影は左手を上げて応えた。小夜子は両腕を左右に大きく広げた。羽ばたく寸前の鳥のように。人影も同じポーズをとる。鏡像のようだ。神々しい光の輪の中心で両手を広げる人影は、あたかも羽をひろげた孔雀の姿にみえた。 「……異形なる者とは尊き者のことであったか」  姿の見えない大天狗の声だけがする。大天狗は小夜子のことを神仏の化身だと思っているにちがいない。  小夜子もまた、人だけが持てる力があることに気づいていた。人が持つことを許された力であるのに、小夜子が今まで使うことのなかった力。心のどこかで役に立たないもののように、持っていてはいけないもののように思っていた力。それを解き放つ時がきたのだ。  小夜子は両腕をゆっくり下ろすと、静かに目を閉じた。体の力を抜くと、眠りにつく瞬間のように頭の中が溶け始めた。心の中にやわらかなものが、どこまでも広がっていく。  小夜子は両手を左に振りきった。 「開けっ!」  ガコンッ!  岩のぶつかり合う大きな音がして、小夜子は目を開けた。手を触れてもいないのに、一枚岩の戸が大きく左へ移動していた。岩戸の開いたあとには、大きな岩屋が口を開けている。  突然、大天狗の「そいやっ!」と言うかけ声とともに、体が中に浮いた。大天狗の通力で、岩屋の上にある平たい岩の上に三人は降り立った。と同時に、ドドドッと地響きがして、岩屋から鉄砲水が噴き出された。 「うわあっ!」  小夜子と神楽が叫ぶ。    水は噴き出し続ける。天つ山を流れ落ち、滝となり、川となり、ふもとの森を抜けていく。そのまま水は岩隠れの谷に流れこみ、岩根峡に渓流を作り出す。空音の峠の低いところを選んで流れは続く。星の林の干上がった川底は水に沈み、本来の姿を取り戻していく。  小夜子たちはその様子を飽きることなく眺めていた。水面に光が反射し、輝く帯となっている。岩屋からの水はしだいに勢いを失い、ついには細い涌き水の水源に落ち着いた。  それから再び地鳴りがして、岩屋から一匹の白竜が飛び出した。  ナマズのひげを生やした鰐みたいな顔をしている。ギョロッとした目の周りの肉は高く盛り上がり、牛のような両耳のすぐそばには角が生えている。鯉のうろこと蛇の腹を持ちながら、四本の足もある。その足は虎のようであるのに、鋭い爪は鷹のそれである。うろこ一枚一枚が白銀にきらめき、澄んだしずくがポタリポタリと垂れる。  小夜子も神楽も声を失って、まばたきもせずにその姿を見つめた。  白竜は川と同じく光り輝き、天に昇っていく。光の筋はみるみる遠のき、小さな点となって今一度キラリと光ると見えなくなった。  それを見届けた大天狗は、うちわをひと振りして小夜子と神楽を岩屋の前に降ろすと、姿を消した。気持ちよさそうにワッハッハッと豪快な笑い声を残して。

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