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「その鬼はほかの世界に出ていました。はるか昔の小夜子どのの世界だと思います。  鬼は一生懸命に生きる人たちが大好きで、岩戸がどんどん閉じてほかに鬼たちが逃げ帰ってもまだ残っていました。鬼は人よりはるかに長生きなので、多くの親しい人が寿命を迎えて去っていくのを見送り続けました。  そうしているうちに、岩戸はもう鬼が通り抜けられないほど閉じてしまいました。けれども鬼はそれでもよかったのです。  あちらの世界に鬼が少なくなり、人たちがその存在を特別なことだと思うようになると、鬼はひっそり山にこもりました。鬼が大勢いた以前のような人々との楽しいふれあいがなくても、ふもとの村を眺めて暮らすだけで満足だったのです」 「あれ? その話って……」  小夜子を遮るようにキューイッと鳥の甲高い鳴き声がした。そして葉を揺らし飛び立った。  座った地面の湿り気が袴や服を濡らしていたが、神楽も小夜子もその場から動こうとはしなかった。 「ところが鬼と人とのふれあいがなくなったせいで、人は鬼をおそろしい生き物だと思うようになりました。自分たちより体が大きく、角を生やした姿がそう思わせたのかもしれません。  やがて、山にこもった鬼も村の人々からおそれられるようになりました。そしておそれるあまり、村へ鬼がやって来ないようにと生け贄を差し出すことにしたのです」  森の中を強い風が通り抜けていく。湿った土の墨汁に似たにおいがツンと鼻につく。  その鬼もこんな森の中で、勝手に差し出される生け贄を迎えたのだろうか。人が好きで、自分の存在が怖がらせてはいけないと姿を隠したのに、そんなことになってしまうなんて。 「……ほんと、ひどい」  小夜子は鬼の気持ちを思うと鼻の奥がツンとして目頭が熱くなったが、土のにおいのせいだと自分に言い聞かせ、目頭をそっとおさえた。  なぜ神楽がこの話を知っているのか、なぜ急にこんな話を始めたのかわからなかったが、いつしか小夜子は知っているはずの話に引きこまれていた。神楽は淡々と語り続ける。 「だれが決めたのか、月読の掟というものができました。毎年最初の月のない晩に生まれた女の子が生け贄になることを定められたのです。その子は十六歳になった時、村はずれに作られた石舞台と呼ばれる平らな岩の上に寝かされます」 「でも鬼は生け贄なんかやめてほしいんでしょ?」  小夜子の読んだ『月読の掟』ではそうだった。 「もちろんです。ですから村人が去った後に生け贄の娘が逃げ出してもそのままにしましたし、腰が抜けて逃げることもできない娘は抱きかかえて村に帰したこともありました。ところが、帰ってきた娘を見た村人は喜ぶどころか殺してしまったのです。鬼も欲しがらない穢れた娘だというのです」 「お信さん……」  小夜子はまるで自分が見てきたかのようにその悲しい贄の名をつぶやいた。けれどもその声は小さくて、神楽の耳には届かなかった。 「それ以来、鬼は、差し出された娘は村へ帰さず、この世界へ来るように仕向けたのです」  先ほど飛んで行った鳥が戻ってきて、すぐ近くでキューイッと鳴き始めた。 「でも岩戸はもう細くしか開いてないのよね?」 「はい。しかし、体の大きい鬼は無理ですが、人の娘なら楽に通れます。ただ困ったことに、鬼がいくら逃がしてやると言っても、娘は泣き叫ぶばかりで話を聞こうとしません。そこで鬼はしかたなく襲うふりをして、娘が岩戸へ逃げるように追いました」 「それで女の子たちはこの世界で生きていけたのね」 「もちろん来た日は大変な騒ぎでした。なにしろ鬼だらけなのですから」  小夜子は自分が多々良村に来た時のことを思い出してくすりと笑った。鬼なんて信じていなかった小夜子でさえ驚いたのだから、鬼をおそれてきた人だったら気が狂いそうになるだろう。 「それでも年に一人ずつ人が増えるので、新しく来た人も知っている顔を見て落ち着いたそうです。そして逃がしてくれた鬼の優しさを知ったのです」 「そのころは、わたしたちの世界に鬼が少しいたように、この世界にも人が少しいたってことなのね」 「そうですね。互いの世界の存在を認めていれば道はつながっています。岩戸のわずかなすき間は、その鬼のおかげでどうにか閉じられずにすんでいたのです。けれども鬼は人に……ひとりの少年に……」  神楽はつらそうに、本当につらそうに顔をしかめた。  小夜子は両手で口元をおおった。今度は鼻の奥がツンとする間もなく、熱い涙が頬を伝った。 「やめて……」 「知ってほしいのです」 「知ってるわ。だからその先は話さなくていい」 「え? それってどういう……?」  小夜子は背負っていた風呂敷包みを解き、『月読の掟』を神楽に差し出した。神楽は怪訝そうに表紙と裏表紙を眺めた後、パラパラと紙をめくった。 「え……あの、これは」 「元の世界から持ってきたものよ。この旅の間にほとんど読んだわ。だから月読の掟でなにが起きたのか知っているの」 「あ、いえ、でも。……え? え? え?」  まるで「え」と鳴く生き物であるかのように、神楽はずっと疑問と戸惑いの声をあげている。 「タエちゃんも知っていたわ。どういうわけか、これとそっくりのものを持っているらしいの。私たちの世界の岩木って土地に伝わる話みたい」 「え? え? ちょ、ちょっと待ってください」 「でも神楽まで同じ話を知っているのはどういうことなの?」 「小夜子どの! お待ちください!」  小夜子はびくりとして口を閉じた。 「声を荒げてもうしわけありません。しかしですね、この書物」  神楽は『月読の掟』を小夜子に向けて開き、言葉を続けた。 「白紙ですよ」  キューイッと鳴いていた鳥が姿を現した。小夜子たちの目の前にある枝にとまっている。鮮やかな青い羽をしている。 「え?」  先ほどまでの神楽の鳴き声がうつってしまったかのように、今度は小夜子が「え? え?」と繰り返した。 「だってここに! 鬼は雲海さんでしょ? 奥さんは志乃さんでしょ?」 「はい。その通りですが……なぜ……」 「だからあ、書いてあるんだってば」 「わたしにはなにも見えません」  けして薄く見にくい文字ではない。むしろ濃くはっきりとした墨で書かれている。 「……もしかして、ほんとうに見えないの?」 「ですから、先ほどからそうもうしております」  たしかに神楽がうそをつくとは思えない。その必要もない。やはり神楽にはこの文字が見えないのだ。だとしたら。 「神楽はどうしてこの話を知っているの?」  青い鳥がキューイッと一声鳴くと、三本先の木から同じ色の鳥が飛んできて隣に並んだ。互いのくちばしをこすり合わせている。  小夜子と神楽は目を合わせ微笑んだ。二羽は人を警戒する様子もない。神楽はほっとしたように話を続けた。 「小夜子どのは、その書物を最後まで読まれましたか?」 「ううん。最後までは。けど残りはほんの少しよ。志乃さんが岩戸をくぐったからもう話はほとんどおしまいでしょ?」 「ではお教えしましょう……娘は亡くなる直前に子を産みました」 「え?」 「岩戸を通った時には鬼の子を宿していたのです。しかし、生まれた子は息をしていませんでした」 「死……んでたの?」 「いいえ、ただ止まっている、そのようであったと巫から聞いております」 「巫が?」 「はい。巫は多々良村のどの鬼よりも永く生きています。それから何年もの間、巫はその止まったままの子を見守られたそうです」 「その子供は今も……?」  笹の庵にいたのだろうか。わたしがこの世界を信じない、岩戸なんか開けないと言っていたのを同じ屋根の下で聞いていたのだろうか。わたしは、なんとむごいことを……。  神楽はおもむろにパンッと手を叩いた。二羽の鳥が驚いて飛び去った。その行方を見つめたまま神楽が言った。 「その子はすでに目覚めております」 「ああ、そうなんだ」  小夜子の頬がゆるむ。  神楽は意味あり気に微笑んだ。 「おそらく小夜子どのが生まれたころに」 「……え?」 「異形なる者と旅をし、再び岩戸を開くために」 「あ」  大きな流れ。意思に関係なく起こるべくして起こることがら。 「神楽、あんた……」  人は望まれて生まれる。この世に生きる必要があって生きている。それはけして自分のためだけではない。だれかのためにここにいて、だれかのおかげでここにいられる。大きな流れはいくつもからみ合っていて、それはほかの世界にまでつながっている。  自分のことばかり考えてしまうのはなんて小さなことなのだろう。自分が必要とされれば、それをやるだけ。そうすれば大きな流れはまたいつか自分のところに来るのだから。  全てはつながっている。自分のところで途切れさせたりなどできない。進むべき方角は示されている。それを見つけるのは自分自身。  あの鬼は――神楽の父親はそのことを充分に知っていたのだろう。だからこうして神楽がいてわたしがいる。 「神楽」  神楽を見つめる。神楽が見つめ返す。小夜子はそっと両手を伸ばし、神楽の頬に触れた。 「あんたって……あんたって……」  そのまま両頬をつまみ、左右に引っ張った。 「い、いたた……!」 「あんたってば、なんでそういうことを早く言わないのよっ!」  小夜子はつまんだ頬を勢いよく離した。 「いっ! 痛いですってば!」  神楽は目を潤ませて両頬をおさえている。 「なにボサボサしてるの! 天つ山の岩戸へ行くわよ!」  小夜子は立ち上がると顔をしかめた。 「わぁ、おしりビチョビチョ。気持ち悪い」  神楽も右手で頬を左手で袴を気にしながら立ち上がった。 「小夜子どの、天の浮き橋ではなく、具楽須古の種で帰れるとわかってくれたのですか?」 「うん、まあね。でもまずは岩戸を開いて水が多々良村まで届かなくちゃね。帰るのはそれからよ」 「はいっ!」

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