具楽須古の種(ぐらすこのたね)
〈月読の掟 雲海の章 其の二〉

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 朝から空一面に灰色の雲が立ちこめ、草のにおいが強くなる。いまにも雨が降り出しそうだ。  雲海は我が家の前で、どんよりとくもった空を見上げ、深いため息をついた。この天気がますます気分を重くさせる。近ごろ志乃が顔を見せないことも、雲海の憂鬱を増す理由のひとつでもあった。だが、一番の原因は、天気が悪いことでも志乃に会えないことでもない。  ついにこの日がきた。今年もこの日がきてしまった。  月読の祭。月読の贄が石舞台に捧げられる日。  毎年この日がくるたびに、雲海はこちら側に残ったことを悔やんだ。いつまでも人々となかよく暮らしていけると夢見て残ったことで、人々を苦しめている。あのころは自分のことばかりで、大切な人々のことを考えていなかった。自分が思うことは、人々も同じ思いだと勝手に思いこんでいたのだ。  しかし、悔やんでばかりもいられない。どんなに悔いても、あのころに戻り、やり直せるものではないのだから。いまできることをやるしかないのだ。  雲海は眉根をよせ、上目遣いににらみ、くちびるをめくり上げて牙をむいた。腹の底から地響きのような低い声を出す。これこそ、まさに人々が思い描く鬼の姿だ。 「……これでいい」  雲海は低くつぶやいた。  このようにして、贄となった娘を岩屋へ追いこめばいい。本望ではないが、これがもっともよい方法なのだ。  今年はまだいい。来年はどうすればよいのだろう。岩戸はほとんど閉じてしまっている。いや、来年の心配はまだ早い。そもそも、今日の贄が大柄な娘であったなら、通り抜けることはかなわないだろう。そうでないことを祈るばかりだ。  木々のすき間から、日がもっとも高い位置に上ったのが見える。もう贄が捧げられた時分だろう。雲海は重い足取りで石舞台へ向かった。  石舞台の近くまできても、葉ずれの音と鳥の声のほかは聞こえない。こんなに静かなはずはない。いつもならば贄は必ず泣いているものだ。大声で泣き喚く者、さめざめと泣く者……。人それぞれだが、だれもが悲しみとおそろしさで泣く。  だが、今日はその声が聞こえない。  どうしたことだろう。まだ早かったのか? それとも、恐怖のあまり気を失っているのだろうか。  ふと、五年前の娘が腰を抜かしていたことを思い出した。泣き声も叫び声も上げられないほどにおびえきっていた。今年もそんな娘なのだろうか。だとしたら、一苦労だ。  雲海は木の陰からそっとのぞいてみた。  贄はいた。白い小袖を身にまとった娘が、こちらに背を向け、石舞台の上に正座している。後姿ではよくわからないが、自分のさだめを受け入れているのか、あきらめているのか、妙に落ち着いている印象を受ける。  こんな贄は初めてだ。うまく脅かすことができるだろうか。でも、やらなければ。細身のこの娘なら、岩戸が閉じかかっているせまい岩屋の入り口に入れるにちがいない。岩木村に帰せない以上は、多々良村で新しい暮らしを始めてもらうしかあるまい。  よしっ!  雲海は稽古のとおり、まさに鬼の形相で雄叫びを上げながら娘に向かっていった。娘はびくりとしたが、肩を震わせているだけで、振り返らない。雲海は娘の正面に回り、再び声を上げようとして、口を開いたまま止まった。  娘が肩を震わせていたのは、こわがっていたわけでもなく、泣いていたわけでもなかった。そこには笑いを押し殺している妻の姿があった。 「志乃……!」  志乃はどうにか笑いを収めた。 「すごいわね。それならだれだって逃げ出すわ。みんなが思っている鬼そのものだもの」  志乃はまだ小さく笑っている。けれども雲海には笑うことができなかった。  なぜここに志乃がいる? 月読の祭はどうした? 月読の贄はどこにいる?  雲海はまじまじと志乃を見つめた。志乃が笑みを返す。白い着物が嫁入りのようだ。雲海ははっとした。 「まさか……」  志乃がうなずく。 「そうよ。今年の贄は、わたし」  雲海は開いた口がふさがらない。志乃は石舞台の上で、姿勢を正した。 「鬼よ、月読の贄でございます。または、雲海さんの花嫁でもあります。どうぞ、この志乃をお受け取りください」  志乃が言い終わらないうちに、雲海は志乃を抱き上げた。 「おお! なんとすばらしい! これからは志乃と暮らせるのだな」 「そうよ。それで、来年の月読の祭には岩木村に帰ろうと思うの。わたしが無事だったということを見てもらえば、雲海さんのこともわかってもらえるはずよ」  雲海は満面の笑みを浮かべた。 「なんとすばらしい。まもなく岩屋は閉ざされる。来年からは月読の贄をどのようにして逃がすべきか悩んでいたのだ」 「すべてがうまくいくのよ!」 「しばらく顔を見せてくれなかったから、どうしたのかと思っていたよ」 「わたし、雲海さんを驚かしたかったの」 「それならお望みどおりだ。充分驚かされたよ」  雲海は妻を抱え上げた。 「さあ、我が家へ」 「待って。寄りたいところがあるの」 「わかっているよ。この風習の終わりが近いことを報告しに行こう」  ふたりは岩屋のそばの一角に立ち寄った。土まんじゅうの前に花が供えてある。ふたりは並んで手を合わせた。 「お信さん、月読の贄はもう出ません。あなたのような悲しいことは二度と起こりませんから」 「ほんとうにすまなかった。まさかあんなことになろうとは……」  うつむく雲海の腕に志乃はそっと触れた。 「いつも言っているでしょう? 雲海さんのせいではないわ」 「だが……」 「もうこんなことは終わるのよ。終わらせましょう。来年の月読の祭までわたしたちが幸せに暮らせれば、きっとわかってもらえるから」  雲海が志乃の手をとった。  そのときだった。一気に山をかけ上ってくる人影があった。 「志乃に手をだすなっ!」  ふたりが弾かれたように振り向くと、そこには一振りの刀を振りかざした草太が立っていた。 「草太……!」 「志乃、助けにきた」  草太は刀を構えた。 「草太、刀なんてどうしたの?」 「これか?」  草太はちらりと刀の刃先を見る。 「うちの家宝さ。まさに鬼退治にふさわしい」  雲海はうなった。まだ終わったわけではなかったのだ。浮かれていた気分が、ものすごい勢いで沈んでいくのを感じた。 「志乃を離せ」  草太に言われて、雲海は自分がまだ志乃の手を握ったままだったことに気づいた。そろそろとその手を離す。が、志乃が握り返してきた。 「雲海さん、離すことないわ」  志乃は草太の目をまっすぐ見つめた。 「ねえ、聞いて。すべては誤解なのよ」 「話をしている場合じゃないだろう。志乃、こっちへこい。おい、鬼め、志乃に手を出すな」 「ちがうわ。わたしがこうしているのよ。わかるでしょう?」 「そうしろと脅かされているんだろう。志乃、逃げろ。そこにいたら、おまえまでけがをする」  草太は刀を握り直した。 「いまは岩木村には帰れないわ。お信さんのときのことを忘れたの? 鬼もきらう穢れた娘と言われてどんな目にあうか、知っているでしょう?」  志乃はお信の墓を指し示そうとしたが、草太がさえぎった。 「そんなのは鬼の首をとって帰ればすむことだ。贄を捧げる相手がいなくなればな」 「そんな……」  思わず志乃は雲海にしがみついた。しかし、雲海は優しく志乃の手をほどいていく。 「え? 雲海さん、なにを……」  雲海は寂しげに目をふせた。 「もういいのだ。おれがいることが贄を作り出しているのだ。終わらせるためには、おれがいなくなるのが一番いい」 「雲海さん……」 「へえ。わかっているじゃないか」  そう言いながら、草太は間合いをつめてくる。雲海は志乃を脇へ押しやり、草太が向かってくるのを待っている。わずかずつだが確実に縮まっていく草太と雲海の距離。志乃の足は根が生えたように動かない。  一歩一歩踏みしめながら歩を進める草太。雲海はだらりと両腕を下げたまま、悲しげな目で志乃の姿を見下ろしている。無言で見つめあう雲海と志乃。そこに交わされている思いに草太が気づく由もない。  身じろぎひとつしない雲海を草太は警戒した。  なにか策でもあるのだろうか。あのように無防備な立ち方でおれの刀をよけるというのか。あの腕の長さなら、おれが切りこむのと同時におれの首を絞めることもできるだろう。力任せになぎはらうことも。  草太はここにきて身の縮む思いがした。だが、志乃を見捨てるわけにはいかない。なんとしても岩木村に連れ帰るのだ。その思いだけが、草太を動かしていた。首から提げたお守り袋を握りしめる。ばばさまがくれた魔よけだ。中には桃の種が入っている。  やれるものならやってみろ。相討ちでもかまうものか。 「おりゃあー!」  草太は刀を上段に構え、一気に雲海目がけて走った。  志乃が息を飲む。雲海は静かに志乃に微笑みかけた。  草太は助走をつけたその勢いで最後の一歩を高く飛んだ。そのまま刀を力強く振り下ろす。なんの抵抗もせずにいる雲海の大きな体を袈裟がけに斬った。血しぶきが飛び、草太の顔を赤く染める。雲海は短く「うっ!」とうなって、どうっと倒れた。

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