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 小夜子は『月読の掟』を閉じた。あと数ページ残っていたが、とてもではないがこれ以上読み進める気力はなかった。  小夜子は大きく息を吐き、草の上に寝転んだ。青い空にころころとしたかわいらしい雲が流れていく。その空に向かって『月読の掟』をつかんだ両腕を伸ばした。  これはこの世界と小夜子の世界の物語だ。  多々良村の巫とは、小夜子が会ったあの巫だろう。それでは岩木村とは……。  はっとして飛び起きる。  車から見えた行き先表示の青い看板。向かう先の地名は岩木。大ばあちゃんちのあたりだ。  つながっていた。ずっと昔からつながっていたのだ。 「小夜子ちゃーん」  タエが竹筒を高く掲げて走ってくる。 「タエちゃん。管狐、見つかったの?」 「うん。やっと見つけた。なんか道を探してたとか言っていたけど、天つ山とちがう方に行こうとしているんだもの」  不満げに口をとがらせたタエの視線が小夜子の手元で止まった。 「それ、なに?」 「ああ、これ? 元の世界から持ってきちゃったの」  タエは怪訝そうに眉根を寄せてちょっと見せて」と言った。手渡すとパラパラとページをめくり、小夜子を睨みつけた。 「え? なに? どうしたの?」 「これ、わたしの!」 「え? え? なに言ってるの? 私のだよ。正確には大ばあちゃんのだけど」 「うそ。だってわたし、これとそっくりなのを持っているもの! なんで小夜子ちゃんが持っているの?」 「そんなの知らないよ。あ、そうだ、神楽にきいてみてよ。こっちに来た時から持っていたって知っているからさ」 「……そうよね。ごめんなさい。あまりに似ていたから盗られたのかと思っちゃって。けど考えてみたら、わたし、こっちに持ってきていなかったわ」  タエは再度「ほんとうにごめんなさい」と頭を下げながら『月読の掟』を返してきた。 「わかってくれたならいいの。でもそんなに似ているの?」  印刷された本ならいざ知らず、同じような手書きの紙の束が存在するのだろうか。しかも中身を見た上で同じものと勘違いするのだから、筆跡も似ているのだろう。 「ええ。そっくり。けど変ね。同じものが二つもあるなんて。……あ、ちがうの、疑っているわけじゃないのよ。ただ、ほかの昔話みたいに有名なお話じゃないのよ。ここに書かれているのはわたしの家のあたりのことだから」 「タエちゃんって岩木に住んでるの?」 「ええ、そうよ。おとうちゃんとおかあちゃんと、あんちゃん。四人で暮らしているの。岩木を知ってるの?」 「大ばあちゃんちが岩木なの!」 「へえ! それは奇遇ね!」  二人は手を取ってその場で跳ねた。  もしかしたらどこかで会ったことがあるかもしれない。過去にはなくてもこれから会うことがあるかもしれない。そんな近くにいたのに、言葉を交わしたのがこんなに遠いところだなんて。  いつまでも跳ねて笑う二人を見て、竹筒から顔を出した管狐がケッと鳴いた。 「小夜子どの! タエどの!」  そこへ虫から逃げ回っていた神楽が戻ってきた。 「ねえ、神楽、聞いて!」  小夜子は知ったばかりの事実を告げようとしたが、神楽は切羽詰まった様子で遮った。 「それどころではありません。森で不思議なものを見つけました」 「不思議なことなんて、今までにもたくさんあったじゃない」  小夜子が軽く受け流したが、神楽は納得しない。 「それは小夜子どのにとってそうなのであって、わたしは不思議でもなんでもありません。体験したことがなくても、話に聞いたことのあるものばかりです。それに、タエどのが」 「タエちゃん? タエちゃんならここに……あれ?」  手をつなぎ共に跳ねていたはずのタエの姿がみるみる薄れていく。 「え? え? ええ?」  消えていくタエを引き留めようと、両手をやみくもに動かしたが間に合わなかった。 「なにしてるんですか! ……とにかく、来てください」  森へ走っていく神楽を小夜子は慌てて追いかけた。 「待ってよ、神楽。タエちゃんがどうしたの?」  神楽が森の中でタエを見たのだとすると、小夜子といたタエはなんなのだろう。いや、森の中のタエが偽物かもしれない。それとも二人とも……。  森を少し入ったところに、開けた場所があった。そして、そこにそれはあった。  小夜子にはそれがなんなのかわからなかった。でも、すごく場ちがいな感じがする。  それは、一辺が二メートルはあろうかという、白く巨大な立方体だった。同じものがいくつも乱雑に天高く積み重ねられている。  塔か小山のような立方体のふもとで、タエがわずか上を見つめていた。 「なによ、これ」 「あっ、小夜子どの! そのような得体のしれないものに触れてはなりません!」 「わたしにとってはこの世界のなにもかもが得体のしれないものよ」  立方体に触れてみると、マシュマロのようなやわらかさだった。この一帯だけ、妙な息苦しさがある。空気の代わりに見えない真綿が充満しているかのように、かすれて乾いた呼吸しかできない。  地面は液体になる寸前のやわらかさで、ムニュムニュしている。  この空間の全てが淡い白さで発光し、サラサラフワフワしたものでできていた。 「あっ!」  タエが叫んだ。  下から三番目の立方体に管狐が乗っていた。そこからタエを見下ろし、誘うように尾を振っている。小夜子や神楽には見向きもしない。タエひとりをどこかへ導くつもりらしい。  タエの顔からスーッと表情が消えた。目は力を失い、とろんとした視線で積み重なる立方体を仰いでいる。やがてふらふらと進み出ると、一番下の立方体にしがみついた。 「タエちゃん!」 「タエどの、無理です!」  神楽が止めるのも聞かずに、タエはやわらかなその物体の側面をキュッと握った。すると、急に体の重みがなくなったかのように、タエの体がポーンと跳んだ。一段目の立方体の上に着地すると、その勢いでまたポーンと跳ぶ。  管狐に先導されて、タエはどんどん登っていく。管狐は立方体の白さに溶けこんでしまって、もうほとんど姿が見えない。 「タエちゃん!」  小夜子が呼びかけても、タエは振り向きもしない。 「タエちゃんっ!」  小夜子の声は耳に届いているはずなのに、タエの心までは届いていないようだ。タエはなにかに憑りつかれたかのように、わき目もふらず登っていく。立方体はずっと上まで続いていて、終わりが見えない。  小夜子もタエを真似て、やわらかな側面をつかんで登ろうとしてみるが、しっかりと重力が働いていて、とてもタエのようにポーン、ポーンと登っていくことはできない。それどころか、一つ目の立方体にも上がれない。 「なんで? タエちゃんは登っていけるのに」  小夜子にはこの先に出口があるような気がしてならなかった。タエだけが元の世界に帰れるというのだろうか。 「タエちゃん、ひどいよ! ひとりで帰らないでよ!」  泣きたい気持ちでいっぱいの小夜子の頭の中に、管狐の声が響いた。 『またな』 「待って! 待ってよぉ!」  小夜子はただ叫ぶことしかできない。しかし、いくら叫んでも返事はない。もう姿も見えない。  ひどい……こんな別れ方なんて……ひとりで行ってしまうなんて……。  小夜子はその場に力なく座りこんだ。ムニュムニュとやわらかかった地面は、しだいに本来の固さを取り戻していく。白く発光していた立方体も徐々に下の方から光を失っていく。 「もしかして、これがあまの浮き橋とういものなのでしょうか?」  神楽のつぶやきに小夜子は答えない。 「小夜子どの。これはあなたが思っているようなものではないかもしれません」 「え?」  小夜子はやっと神楽を見た。 「これはふたつの世界をつなぐものではなく、天地をつなぐものかもしれません。その昔、天の浮き橋というはしごが天地にかかっていたそうです。これがそうなのかもしれません」 「……どうして、そう思うの?」 「あれを」  神楽の視線の先には、見たこともない鳥が飛んでいた。いや、鳥と呼んでいいものかどうか。人の顔をしている。観音さまのような優しく、美しい女の人の顔だ。後光がさしている。きらびやかな羽と長い尾。肩にかけた羽衣が優雅に風に揺れる。 「あれは……?」 「迦陵頻伽かりょうびんがと思われます」 「かりょうびんが?」 「はい。極楽浄土にいると言われる鳥です。天路あまじを――天に昇る道を案内するのでしょう」  うっとりと見つめていた小夜子は、我にかえった。 「そんな! 極楽浄土って、亡くなった人が行くところでしょ? 大変! タエちゃんが連れて行かれちゃう」  神楽はゆっくり首を横に振った。 「タエどのは自ら昇られました。小夜子どのも見ておられたでしょう?」 「一緒に帰るって約束したのに……」 「きっと小夜子どのとタエどのの帰る場所はちがかったのです。それだけのことですよ」  そう言いながらも、神楽もさびしそうだ。けれども、不思議と涙は出ない。タエが苦しみもせず、迷いもせず行ってしまったせいだろうか。まるで旅立ちを見送っている気分だった。  小夜子は神楽と並んで空を見上げた。タエの姿はもう見えない。タエを導くように飛んでいた迦陵頻伽もはるか上空へ去ってしまった。白く煙る上空から、高く澄んだ美しい歌声が聞こえていた。

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