具楽須古の種(ぐらすこのたね)
〈月読の掟 雲海の章 其の一〉

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 今年も月読の祭が近づいてきた。  雲海は石舞台のなめらかな表面をそっとなでた。  またここに新たな贄が捧げられる。それがなんになるというのだろう。いったいだれが始めたことなのか……。  雲海がこの山に住み着いたころには、そんなことは行われていなかったはずだ。  おれがなにかしたとでもいうのか……。  そんなはずはなかった。雲海は人々とうまくつきあっていた。人より体格の大きい雲海は力仕事を手伝った。それに対して人々は、ことあるごとに食べ物をわけてくれ、祭にも誘ってくれたものだ。姿かたちはちがえども、よき友人だった。  からすが次々と山へ帰ってくる。山の日暮れは早い。ふもとの村が夕日に包まれるころ、山はすでに夕闇がおとずれている。 「もう日が暮れるぞ」  背後から声をかけられて、雲海はゆっくり振り向いた。そこには人の姿があった。今となっては数少ない友人のひとりだ。 「やあ、善さん」  善はちらりと石舞台に目をやった。 「……そろそろだな」  善は山人だが、村のことをなにも知らないわけではない。ほとんどのことは山の中でこと足りるが、着物がだめになったときや、そのほか山では手に入らないものが必要になったときは山を下りる。必要な銭は、山人の間で伝わる薬を売って稼ぐ。  山人は村人や都人と比べようもないほど薬草にくわしい。雲海も善には何度か薬で世話になったことがある。  山菜を摘みにきた村人とばったり出くわしたとき、相手は逃げる人ばかりではない。勇敢にも、というよりは錯乱して、鎌を振り回す者もいるのだ。雲海はけして抵抗しない。その気になれば、命を奪うこともたやすいだろう。けれども雲海にその気はまったくない。傷つけるくらいなら、傷つけられた方がましだと思うのだった。  そうして雲海がけがしたとき、善の作った塗り薬はよく効いた。 「今年はどんな娘が来るんだろうなぁ」  善も雲海と一緒になって石舞台をなでた。 「うまく逃がしてあげられるといいな」  雲海は力のない笑みを返した。 「おれが追いかければだれだって逃げる。岩屋に追いこめばいいのさ」 「あーあ。岩木村のやつらもわかっちゃいねぇな。こんな気のいい鬼を悲しませやがってよ」 「しかたないさ。きっとおれがなにかこわがらせることをしてしまったのだろう」 「そんなわけねぇよ。あんたはなかよくやってたんだろう? まあ、おれたちは鬼みたいに長生きじゃねぇから、そんな昔のことは知らねぇけどよ、いまの雲海を見てりゃわかるよ」  雲海は心からの笑みを浮かべた。 「ありがとう、善さん」 「礼を言われることじゃねぇよ。さぁてと。そろそろ帰るとするかな。あんたも真っ暗になる前に帰れよ」  善は雲海の背中をぽんっとたたいて去っていく。肩をたたきたいところだが、そこまで手が届かないのだった。雲海は、善のうしろ姿が見えなくなると、やっと石舞台を離れた。  雲海の家は岩屋の先にある。雲海が岩屋の前を通りすぎるのを待っていたかのように、生温かい風が岩屋から強く吹いた。  雲海は足を止めた。  いつもと風の感じがちがう。  岩戸のすき間から白い霧が渦巻きながら出てきた。やがて、霧は集まり、人の背丈ほどのかたまりになった。そしてみるみるうちに、少しつり目で色白の美しい女性の姿にを形づくった。 「……かんなぎ」  雲海はなつかしい姿を、目を細めて見つめた。 「雲海、しばらくですね」  巫は白い珠を抱えている。着物は光沢のある絹で織り上げられており、夜の闇がおしよせつつある山の中で青白い光を放っている。 「今日はどうなさったのです?」  雲海は不思議そうにたずねた。  それもそのはずで、巫は多々良村の祭祀を行う者であり、村はずれの高台にある笹の庵と呼ばれるところからめったに出ることはない。そのため、巫の姿を知るものもほとんどいない。雲海が巫を知っているのは、いつまでも人とのつながりを求めて、故郷に帰らずにいる雲海を気にかけて、たびたび様子を見にきてくれているからだ。 「今日は、別れを言いにきました」  巫は雲海の目をまっすぐに見て答えた。雲海はわずかに眉を上げた。 「とうとう、そのときがきたのですね?」 「ええ。わたくしの知るかぎり、ふたつの世をつなぐ道はここだけになりました。そして、ここも、もう……」  岩戸は、この前志乃と見たときよりも閉じてきている。贄を逃がすことができるのも、今年が最後にちがいない。それどころか、今年の月読の祭までもつかどうかもあやしいものだ。  巫はゆっくり首を横に振りながら小さく笑みを浮かべた。 「このような知らせを受けても、あなたは贄の娘のことばかり気にかけるのですね……」 「なぜ……」 「あなたがなにを考えているかなど、言わずともわかります。あなたの顔を見ていれば」 「……おれはもうよいのです。ここもおれの故郷だと思っていますから」 「そうですか……。人も多々良村をそのように思ってくれればよいのですが」  巫は、ふもとの方角に目をやった。 「本来、多々良村こそ人々が作り上げた国であり、心のふるさとであるはずなのですが……。あの者らはそれを忘れてしまっている。わたくしたちの国を興したあの心が、時を経て薄らいでいくものであったとは、残念でなりません」  巫は薄いくちびるをかみしめた。 「しかし、巫。まだ多々良村が消えたわけではないのですよ」 「なんと?」  雲海は岩戸に目をやった。 「ふたつの世が岩戸によって隔たれただけではありませんか。望みはあります。多々良村と岩木村、そのほかの村や都も交わらずとも、そこにあるのです。いつかまた岩戸は開かれるでしょう」  巫はまぶしそうに目を細め、雲海を見上げた。 「……そうですね。まさに雲海の言葉のとおりです」  そして、ふっと笑った。 「わたくしとしたことが、目の前のことしか見えていなかったとははずかしいかぎりです。雲海の方がよほどことの本来の姿が見えているのですね」  雲海は、あわてて首を振った。 「とんでもない。おれは思ったままを言ったまでで。なんにも考えていませんよ」  巫は手に持った珠を頭上にかかげた。雲海は腰をかがめ、珠を額に受けた。巫が歌うような調子で言葉を述べた。 「この者の思いが再び人々の心によみがえらんことを!」  岩屋の奥から、湿り気を帯びた風がごうっと吹いた。  雲海は深く頭を垂れた。  あたりは夜の闇に包まれている。木々の葉が生い茂る山の中には月の光も届かず、漆黒の闇がたちこめている。  巫は雲海から離れ、岩屋の前に立った。 「雲海。再び岩戸が開くそのときまで、しばしの別れを申す」 「巫……」  巫は珠を自らの頭に載せた。白い煙が巫の姿を包みこむ。やがて煙の消えた場所に立っていたのは、あの美しい女の姿ではなく、白狐だった。その毛並みは白銀に輝いているようにも見える。三本の太く長い尾をゆらりと振った。白狐は体と同じ色の珠に前足を乗せ、別れの言葉を口にした。 「さらば。雲海」  巫は身を翻して岩屋の奥に消えた。  あとにはただただ深い闇がたちこめていた。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません