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 三人が出ていくと、部屋の空気が変わった。ねっとりと体にまとわりつく生ぬるい風。大ばあちゃんちの裏の岩屋から吹いていた風と同じだ。  御簾がひとりでに巻き上がっていく。白い着物のすそが見えてきた。風はまだ吹いている。なのに、燭台の炎は揺れていなかった。  小夜子の心に、原因のわからない違和感が生まれた。これはわたしの夢のはず。でも夢の中でこんなことが……。  風があるのに炎が揺れないことを言っているのではない。そんなふうに辻褄の合わないことは、夢の中ではよくあることだ。そうではなくて……なんだろう……なぜこんなに細かいところまで気づいてしまうのだろう。夢なら辻褄の合わないことは受け流されていくのに。  御簾が上がりきる。  やはりおかしい。夢の中で、ありえないことをおかしいと思ったりするだろうか。そもそも、小夜子は、怪奇やファンタジーなど現実でありえないと信じていることは、夢にも見たことがない。  姿を現した巫は、少しつり目の色白で美しい人だった。巫は上げられた御簾の下をくぐり、小夜子の前に立った。そしてかすかに笑みを浮かべ、袂で顔を隠した。すると、巫の足元に白い煙が湧いてきた。煙は広がらずに立ち上り、すっぽりと巫を覆う。それから、再び足元に吸いこまれていった。  煙の消えた場所に立っていたのは、あの美しい女の人ではなく、白狐だった。  ろうそくの炎を背に受けて、金色に輝いているようにも見える。太く長い尾は三つに裂けている。小夜子は座ったままあとずさった。 「……なによ、これ。こんなの、ありえない」 「これだけのことを目のあたりにしてもなお信じられないと申すのですか?」  白狐がしゃべった。巫の声だ。正体は白狐だったらしい。  小夜子は身じろぎもせずに白狐を見つめた。  白狐は体と同じ色の珠に前足を乗せている。 「なにが可能で、なにが不可能であるかを判断しているのはあなたです。あなた自身がそのことがらを知っているか知らないかで決めているにすぎません。仮に、全ての人がそのことがらを知らないとしましょう。しかし、それは過去において起こらなかった、または知られていなかったというだけです。ものごとには初めがあります。なにかの始まりをあなたは全て『ありえない』としてしまうのですか?」  もっともだ。その昔、地球が丸いなどだれも信じなかった。人間が月へ行くなど考えもしなかった。たしかに、今までなかったからといって、これからもずっとないとは言いきれない。  小夜子はあとずさって不自然な体勢でいたのを元の楽な姿勢に戻した。 「不可能なことはないって言ってるの?」 「ちがいます。そうではありません。不可能とは限らないと言っているのです。なにごとも可能性を持っているということです。ただし、ありえない、できない、との思いを口に出してしまうとそうなってしまいます。それが言霊の力です」 「言霊?」 「言葉にも霊力があるのです。言葉の内容に応じて現実も動くのです」  受験生に対して「落ちる」「滑る」などが禁句なのはそういうことなのか、と小夜子は思った。 「ですから、あなたもこの世界のことを否定してはなりません。そのたびにこの世界は、あなたの世界から切り離されていくのです」 「それは、わたしが帰れなくなるということ?」 「そうです」  小夜子の疑う気持ちは薄らいできていた。  現実的な考えの小夜子が、この状況を信じてしまうのはおかしいことではない。現実的であることは、不思議なできごとを全く信じないこととはちがう。どんなに不思議なできごとでも、信じられるだけのものがあれば信じるということだ。全てをありのまま受け入れる。それが小夜子にとっての、現実的であるということなのだ。  さて、これが夢ではないとすると、真剣に帰り道を探さなくてはならない。小夜子の心に焦りが芽生えた。 「ごめんなさい。わたし、多々良村を救うことはできない。さっきは目の前で困っている人を見捨てないなんて言ったけど、自分のことでいっぱいなの。きっと今ごろ、お父さんもお母さんもわたしのことを必死で探しているわ」  白狐は再び煙に包まれ、人の姿に戻った。腕にはあの白い珠を抱えている。  巫は心底安心した顔を見せた。 「どうやら信じてもらえたようですね。これでふたつの世界がこれ以上離されずにすみます」 「喜んでもらえてうれしいけど、それでもやっぱり天つ山の岩戸へは行けない。それで……そっちの頼みを断っておいて、お願いしづらいんだけど……巫って神のお告げとか受けられる人なんでしょ? それで……その……わたしの帰り道がわかったら、教えてほしいんだけど。来た道っていうか、穴はふさがっちゃったみたいなのね。だから……」  小夜子は申しわけなさそうに巫を見上げた。自分のことだけしか考えないなんて都合がよすぎるかな。でも相手は神に仕える身だし、案外見逃してくれるかもしれない。  巫は静かに笑った。つり上がった目が細くなった。 「それこそ、わたくしたちの望むとこです」 「へ?」  小夜子は拍子抜けした。 「だって、わたし帰っちゃうよ? 天つ山の岩戸開いたりなんかしないで、まっすぐ帰っちゃうよ?」 「同じことです。あなたが帰るには天つ山の岩戸を開くしかありません」 「……どういうこと?」 「岩戸が開けば、いにしえのように道ができるかもしれません。岩戸が閉じた時と、人間界との往来が途絶えた時、そして水が涸れた時はいずれも同じとされているからです。全てはあの岩戸の奥にあるのです」 「それって、昔はこの世界とわたしの世界を自由に行き来できたってこと?」 「そうです。しかしながら、別の世界があることを信じなくなった者が出てきたのです。先ほどまでのあなたのようにね。その者たちの否定の言霊によって、ふたつの世界をつなぐ道はふさがってしまいました。けれども、なにかしらの偶然が重なって、こちらに入ってくる人がいます。ちょうどあなたのように。ただし、その中に言い伝えにあるような異形なる者はいませんでした。すぐに来た時のように偶然帰っていくのです。もしかすると、さらに別の世界へと旅立ったのかもしれませんが。中にはそのまま居つく者もいました。しかし、その者にはやがてみなと同じ角が生えてくるのです」  大ばあちゃんが神隠しにあって、それでも帰ってきたのはそういうことなのかもしれない。どうやって帰ったのだろう。まさかその話が本当のことだなんて思わなかったから、詳しく尋ねもしなかった。今さらながら悔やまれる。  けれども、大ばあちゃんが体験したことと同じなら、自分も帰れるということだ。小夜子は勇気がわいてきた。 「――行くわ」 「ええ」 「でも……岩戸って重いんでしょ? どうやって開けるの?」  巫はうつむいて首を横に振った。 「それはわかりません。ただ、人間界へ帰るには具楽須古ぐらすこの種が必要だと聞いたことがあります」 「ぐら……? なに?」 「具楽須古の種です」 「その種ってどういうの? 種をどうするの?」 「……わたくしも存じません。わたくしたちには使えないものですから、詳しくは伝わっていないのです」 「そう……。天つ山に行くしかないってことね。岩戸の開き方も具楽須古の種もそれからね」  意気込んで立ち上がると、服の中に忍ばせていた紙の束がばさりと落ちた。小夜子が拾い上げるよりも早く、巫の手にあった。 「これは……?」 「それは大ばあちゃんちに残されていたの。つい持ってきちゃって。ちゃんと持ち帰って返さなくちゃ」 「やはりあなたこそ待ち望んだ異形なる者」  小夜子が口を開くのを遮るように、巫は神楽を呼んだ。 「神楽、こちらへ」 「はい」  壁ぎわから返事がした。芙蓉と碧落を見送った後、ずっと部屋の隅に控えていたらしい。神楽がそばに来るのを待って、巫は言った。 「異形なる者。この神楽に案内させましょう。天狗さまの涌き水以来、天つ山に行った者は多々良村にひとりもおりません。神楽とて天つ山へ向かうのは初めてのことですが、その道のりは多々良村で語り継がれているので、きっとたどり着けることでしょう。どのような道行きになるかわかりませんが、ふたりの旅の無事を祈ります」  巫は小夜子の額と神楽の額に珠をかざした。無言で一礼する神楽にならって、小夜子も頭を下げた。  そして、すぐさまふたりは笹の庵を後にした。

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