峠の道は切り立つ山へと続いている。その一帯は岩根峡と呼ばれ、掛け軸に描かれる山水画の風景そのものだった。のこぎりの刃のようにギザギザした山頂に、帯の形をした薄い雲がかかっている。 「まさかと思うけど、ここ、登ったりしないわよね?」 小夜子はわずかな期待をもって問いかけたが、その期待は神楽にあっさりうち捨てられた。 「登ります」 「うそでしょう?」 小夜子とタエは声をそろえて叫んだ。登山家でもないのに、こんな絶壁をどうやって登るというのだろう。 「うそではありません。『天を射るがごとくそびえる岩根峡。これを越えずして天つ山は見ることもかなわず』と言われております。岩根峡を越えれば天つ山です。なにをためらっておられます。具楽須古の種を手に入れたくないのですか?」 「それは欲しいけど……」 「下を……谷を行くわけにはいかないの?」 タエが質問した。小夜子も同調する。 「そうよ。わざわざ登ることないじゃない。谷を通って行こうよ」 「とんでもありませんっ!」 神楽はプルプルと首を振った。心なしかかすかに震えているようにも見える。 「岩隠れの谷をご存知ないから、そのようなことをおっしゃるのです。あんな恐ろしいところはほかにありません。魔物の巣窟ですよ」 そんなひとまとめに魔物と言われても、それがどういうものなのか、さっぱりわからない。けれども、小夜子もタエも異世界の人だ。この世界のことは神楽に従うしかない。 とはいえ、垂直にそびえる岩山に登山道があるはずもなく、その代わりになる歩けそうな斜面があるわけでもない。岸壁から張り出した岩が、かろうじて道の役割をはたしている。小夜子とタエは岩根峡を見上げ、身震いをした。 そんな二人を尻目に神楽はにこやかに言った。 「さあ、参りましょう」 その声が震えていることに小夜子は気づいた。 そうか。神楽だって平気なわけではないのだ。 しかし、神楽はこの世界の者である。それにひきかえ、小夜子たちは異世界の者にもかかわらず、多々良村のために旅をしている。そのことを神楽はよくわかっている。多々良村を救ってもらう代わりに、具楽須古の種を手に入れるまで案内し、見守っていく。それが自分に与えられた役目だと強く思っているはずだ。だから、動揺を見せるわけにはいかないと強がっているにちがいなかった。 神楽、小夜子、タエの順に一列に並んで歩き出した。天然の回廊には当然手すりも柵もなく、一歩踏み外せば谷底へ落ちてしまう。一行は安全に進むことだけに集中し、口もきかずにもくもくと歩き続けた。 吸いこまれそうな岩隠れの谷を除けば、道そのものは歩きにくいものではない。幅も広くはないものの、まっすぐに歩くにはなんの問題もない。ただ、乾燥しきった岩肌は、風が吹いただけでもパラパラと砂を降らせた。 だれも岩隠れの谷を見ようとはしない。深い谷底を見た瞬間に足がすくんでしまうのが目に見えているからだ。 「あっ!」 タエが叫んだのと、小夜子と神楽の横を白いものが走りぬけたのは同時だった。神楽は足を止めた。小夜子とタエも立ち止まる。 「今のはなんですか?」 前を向いたまま神楽がたずねる。体のバランスを崩してしまいそうで、首を回すことさえためらわれる。 「管狐が……」 タエが不安そうに声を震わせた。 「勝手に竹筒から出ていってしまったの。落ちたら大変だわ」 「だいじょうぶよ。動物は人間よりずっと運動能力が高いんだから」 小夜子はタエをなぐさめたが、振り向かずに言ったので、神楽の背中に声をかけているみたいだった。 それからしばらく行っても、管狐はいなかった。けれども心配することはないと自分に言い聞かせた。今どうしてあげることもできない管狐のことを考えてもしかたがない。それより、管狐に気をとられて、足を踏み外してしまうことの方が心配だ。 角を曲がったところで、突然道幅が広くなった。二畳ほどの広さがある。そこで腰を下ろすと、やっと人心地がついた。 「まだ気をゆるめないでください。『石の橋渡りて、岩隠れの谷を越える』と聞いております。よって……」 神楽が緊張の面持ちで谷を指した。 「ここを渡ります」 小夜子とタエは、見ないようにしていた谷の方をおそるおそる見やる。 そこには長い長い石橋があった。 石橋といってもきちんとした橋ではなく、ただ平らな石が長く伸びているだけだ。石橋は岩隠れの谷を越えて、こちら側と似たような切り立った山へと続いている。 「ちょっとぉ……これ、人が乗っても平気なの? 割れたりしないの?」 小夜子は石橋を見つめたまま言った。タエは口もきけないほどおびえきっている。神楽が口を開いた。 「……わたしが……」 「え?」 神楽の声があまりに小さく聞き取れなかったので、小夜子は聞き返した。 「なんて言ったの?」 「わたしが先に渡ります。ですから、わたしが無事に渡りきったら、おふたりも渡ってください」 意を決して言った神楽の顔は、血の気を失って白くなっている。神楽がそこまでするのだから、と小夜子も覚悟を決めた。 「……わかったわ」 小夜子が言うと、タエも震えながらうなずいた。 「では、後ほど」 そう言い残し、神楽は石橋を渡り始めた。一歩ずつ足元を確かめながら進んでいく。 石橋は幅一メートル、長さ十メートルといったとこだろう。普通の道であれば、あっという間に行きつける距離だ。それがこの高さで手すりもなく、しかも魔物のすむ谷の上となると、じわりじわりとしか進めない。谷から吹き上げる風で、袂がひるがえり、袴がバサバサはためく。 それでも神楽は渡りきった。息をつめて見守っていた小夜子とタエは、一気に息を吐いた。 「どっちから行く?」 タエが聞いた。 こういうことは後の人ほど恐怖心が増すものだ。早くすませてしまうにこしたことはない。 小夜子は痛いほどに鳴り響く自分の鼓動と、震えを必死におさえているタエを比べ、タエの手をとった。 「タエちゃんから行って。向こうでは神楽が待っている。こっちではわたしが応援してる。だから、ちゃんと渡れるから」 タエは素直にうなずいた。そして、空の竹筒を握りしめながら石橋を渡り始めた。一瞬でも片足で立つことが怖いのだろう。足をすって進んでいく。小夜子は小さな声で「がんばれ、がんばれ」と言い続けた。神楽も声をかけたりはしない。どんなに応援したくても、声をかけたせいで注意をそらさせるわけにはいかない。 神楽の倍以上の時間をかけて、タエは石橋を渡りきった。緊張の糸が切れて座りこむタエを小夜子は遠くから眺めた。 「よしっ!」 小夜子は両手でパンッと頬を叩き、気合いを入れた。いっそのこと走って渡ってしまいたかった。一メートルもの幅があれば、それも可能だ。しかし、岩隠れの谷で鳴る風の音がそれを許さない。 小夜子は一歩ずつ踏み締めつつ進む。そよ風が吹いただけで体がこわばる。 それにしても、この石橋はどうやってできたのだろう。天然のものでないことは一目でわかる。まっすぐに伸びているし、表面は歩きやすく平らになっている。 小夜子には石橋が人工的なものに思えた。しかし、そうだとしても、下から支える柱もないのに、十メートルもの石板をこの状態で維持することなどできるものだろうか。造る過程で、石板自体がその重みに耐えられず、向こう側に届く前に崩れてしまわなかったのも不思議だ。 再びこの世界へ来たばかりのころの疑いが、小夜子の頭をよぎった。 やっぱりこれは夢なのではないか。 こんなことあるわけない。 その時、小夜子の足元からピキピキとひびが入った。ひびはものすごい勢いで枝分かれしながら前後に伸びていく。 小夜子は硬直し、身動きがとれない。首を動かして、この先にいるはずの神楽とタエを見ることもできなかった。どんな小さな揺れも許されない。しかし、小夜子が動かなくても、石橋はひびを深くしていった。 恐怖に打ち勝とうとして、小夜子は自分に言い聞かせる。 「だいじょうぶ。これは夢」 その瞬間、石橋はガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
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