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 風が吹くたび、笹の葉がさらさらと心地よい音をたてる。  眼下には小さな村が見える。村のそばを流れている川をたどると、天を射抜くかのようにそびえる山があった。このあたりの霊峰ともいうべき天つ山だ。そこには天狗がすんでいて、多々良村を見守り続けているという。  ここは千百段もの石段を登ったところにある笹の庵。人との共存を夢見た雲海を見守り続けた、あの巫の庵である。  庭のはきそうじをしていた志乃は、手を休め、腰をのばした。 「ふう」  腰に手をあてて軽くそり返り、それから張り出したおなかをなでた。子が産まれるのは十月十日というから、もう臨月である。 「志乃、少し休んだらいかがですか?」  巫が庵から声をかけた。志乃は「ええ」と微笑んで、巫と並んで縁側に腰かけた。 「身重なのですから、そんなに無理をしてはなりませんよ」 「はい。でも、じっとしているのもよくないんですって。少しくらい体を動かしたほうがいいらしいですよ。千代さんが言っていました」 「ああ、千代は昨年子を産みましたからね」 「ときどき会いにきてくれては、いろいろ教えてくれるんですよ」 「同郷のよしみですね。千代が来たのはいつだったかしら……」 「四年前じゃないですか? お信さんの次の贄でしたから」  そう答えつつ、志乃はくちびるをかみしめた。月読の掟に定められた月読の贄。その風習を思い出していた。雲海が岩屋から送り出した娘たちは、みな多々良村で幸せに暮らしている。来たばかりのころはおびえたものの、前年や前々年に贄として差し出されたはずの知った顔があることに気づくと、たちまち安心し、雲海に感謝したという。 「志乃……」  巫はいたわるような目で見つめながら、志乃の手をそっと握った。 「わたくしに雲海を救う手立てがあればよかったのですが……」  志乃は首を横に振った。 「雲海さんは心のままに生きたのです。岩戸が閉じてしまったのも、雲海さんが不幸な目にあったのも、人の心が起こしてしまったことなのです」  はるかふもとの多々良村には、月読の贄だった女たちが、今は鬼と所帯を持ち幸せに暮らしている。そのことを思うとき、志乃はほほえましさと苦しさをいつも同時に味わってしまう。 「なぜ人の世は、このように鬼と人とが共に暮らせないのでしょう?」 「そうですね……。しかし、時は流れます。人の心も移ろうでしょう。いつの日かまた岩戸が開き、二つの世がつながるときには、それもかなうことでしょう」 「ほんとうに、そんな日がくるのでしょうか?」 「まあ、あなたがそのようなことでどうするのですか。この子が――」  巫は志乃のおなかに手をあてた。 「この子が父の遺志をつぎ、その力となるでしょう」 「雲海さんの遺志……」 「ええ。ここに宿る命は、雲海の思いそのものなのかもしれませんね」  風がやさしく笹の葉を揺らす。志乃は目を閉じて、そのやわらかな音に聞き入った。ほほには暖かな日差しが感じられる。  この世がこうしてあるかぎり、ふたつの世をつなぐ道は再び開けるのだろう。人が異界の存在を思い出すのならば、いつの日かまた。  晴れ渡った空に、白い月がぽつんと浮いていた。

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