シュッ、シュッ。 竹刀が風を切る。 シュッ、シュッ、シュッ。 草太は庭で無心に素振りをくりかえした。いや、無心になろうとして素振りをしている。だが、いっこうに心は静まらない。 ……月読の贄。 岩木村だけが続けている風習。とうにその風習に見切りをつけた近隣の村々では、このことを知っている者もすくないだろう。 中秋のころ月にお供えをして宴を催すのは、どの村でもよく見られることだ。月読の祭もそうした月見の宴のひとつである。しかしそれは一種独特のものであった。 通常、供えるものといえはすすき、女郎花、桔梗のほか、団子や里芋、枝豆、柿、栗といったところだ。月読の祭ではこれに贄が加わる。 贄はだれでもいいわけではない。月読の掟というものがあり、それに沿って選ばれるのだ。 さだめはこの世に生を受けたときに与えられる。それは月のない晩に産まれた女児。月の出ない晩などよくある。だから月のない晩に産まれる女児もひとりではない。そのなかでもその年もっとも早く産まれた子が、贄となるさだめを背負うのだ。 さだめを負った者は、齢(よわい)十六で贄となる。ほとんどの場合、本人には知らされずにその日を迎える。伝えてはならないというきまりがあるわけではないが、なかなか宣告できるものではない。 だから、幼い子供や同い年の子、あとはそれ以降に産まれた子はだれが贄になるか知らずにすごす。娘たちにとってそれは恐怖である。 そして、十六前の娘を好いている男たちにとっても同じことだ。自分の思い人が贄だったら……と考えずにはいられない。 草太も覚悟はしていた。だが、その覚悟があまかったことを認めざるをえない。やはり心のどこかでは志乃ではないと思っていた。 竹刀を振る腕がだるくなってきたころ、縁側にかよが現れた。 「……草太さん。そろそろ中にお入りよ」 寅吉から草太に告げられたことを聞いたのだろう、泣きたくなるくらい優しい声音だった。 草太は竹刀を持った手をだらりと下げ、かよを見上げた。 「……ねえさん……」 声を出したとたん、緊張がゆるみ、涙があふれた。この年になって人前で涙など、とも思ったが、流れ始めた涙は次から次へとあとを追って流れ続ける。嗚咽がもれても、かよは草太が泣いていることに気づかないふりをしたまま縁側に腰かけていた。 この一家は贄を差し出す苦しみを知っている。草太の姉であり、寅吉の妹であるお信は五年前の贄だった。 月読の祭の三日ほど前に軒先に一本の白羽の矢が立っていた。それが贄を出す家のしるしだった。 部屋に上がると、すでに夕飯のしたくが整っていた。寅吉はもう嫁をもらえとは言わなかった。なにも知らない喜助が「おじちゃん、剣の稽古してたんでしょ? 強くなった?」と無邪気に問いかけてきた。 夜半をすぎても草太は寝つけなかった。剣の腕が上達しないことがもどかしかった。なんとしても目的を果たさなくてはならなくなってしまった。 草太が剣を習い始めたのは、お信が贄になった直後だった。 近隣の村とはちがい、岩木村ではだれもが鬼の存在を信じている。だからこそ月読の祭を続けているのだ。石舞台に捧げた贄が、翌日には消えているのだから、信じないわけにはいかない。ほかの村々が月読の祭をやめても害がないのは、岩木村が贄を差し出し続けているからにほかならない。 最後の村。この村が贄を差し出さずにすむ方法はただひとつ。鬼を退治することだ。お信がいなくなってからというもの、草太はその目的のために剣の稽古に励んできた。だれかほかの人が思い立ってくれれば、と願ったが、年にひとり差し出すことで村が安泰ならばかまわないようだ。 寝つく努力を諦めた草太は、せんべい布団を抜け出し、夜風にあたるためそっと外に出た。たった一匹のこおろぎの声が夜の静けさをひきたたせている。涼しい風が草木を揺らし、さわさわと鳴る。風に乗ってざわめきが聞こえてくる。 こんな時間にだれが……? 不審に思った草太は、声のする方へ足をむけた。どうやら村の外から聞こえるようだ。だんだん近づいてくるが、まだ遠い。山沿いの道を通っている。牛車だろうか、車輪のきしむ音がする。 村はずれまでくると、小さな人影がある。草太はその隣に立った。 「ばばさま、こんな夜更けにどうしました?」 「夜更けに出歩いているのはおまえさんも同じだろう。なにか感じたのかい?」 「いえ、夜風にあたろうと外に出たら、ざわめきが聞こえたものですから」 「ほう。あれが聞こえるのかえ?」 ばばさまはおもしろそうに草太を見上げた。 「ええ。近づいてきますね。大勢いるようですが、夜も歩くとはよほど急ぎの用事があるのでしょうか?」 「あれは夜しか歩かないのさ」 牛車の音とざわめきが大きくなってきた。しかし、提灯の明かりは見えない。明かりもなしで夜道を歩ける人などいるわけがない。 「すごい妖気じゃ」 ばばさまは音の方角を見てつぶやいた。草太にはなにも見えないし、感じることもなかった。 山の中腹から紫色のもやが出てきた。色のついたもやなど見たことがない。もやはまるで意思を持ち、今くる者たちを迎えるかのようにふもとの道に下りてくる。 「妖気が濃くなった……」 ばばさまが言うと同時に、草太はズンッと見えないなにかに押された。直感でそれが妖気だとわかった。ばばさまはこれをさきほどから感じていたのだ。 「……来る」 ばばさまは懐から柊の枝を四本取り出した。そのすべてに鰯の頭が挿してある。それをふたりのまわり四箇所の地面に立てた。 「よいか、この中から出るのではないぞ。動かず、声も出してはならない」 「もし、できなかったら?」 「そのときは捕って食われるじゃろう」 草太はとんでもないところにきてしまったと思った。布団の中でおとなしく眠れぬ夜をすごすべきだった。けれども、すでに逃げることはできない。ばばさまが張った結界の中で息を殺しているしかない。 例の一団はすぐそこまできている。結界の中にいるため、先ほどのおされるような力は感じないが、代わりに妖気が目に見える。靄よりも濃い紫色の冷たそうな炎がめらめらと揺らめいている。その炎の中には、崩れかけた牛車と、それを取り囲む異形の者たち。 一団は草太とばばさまには見向きもせずに目の前を通りすぎていく。硫黄に似た臭気が鼻をつく。草太はばばさまに注意されるまでもなく、動くこともしゃべることもできなかった。 話で聞いたことしかない妖怪たちがぞろ歩いている。牛車と思ったのは、無念の形相をした女の巨大な顔が貼りついた朧車。赤黒い子供の姿の魍魎。一つ目で全身が黒い泥田坊。一本足の山精。子鬼の天邪鬼。それらが列をなして山へと入っていく。 一団が姿を消すと紫色のもやも消えた。臭気だけがかすかに残っている。 「……今のは、まさか……」 草太が震える声で問いかけると、ばばさまはゆっくりうなずいた。 「百鬼夜行じゃ」 草太はいまさらのように恐怖が襲ってきた。ばばさまは柊を抜いてまわる。 「ときおり現れるのじゃ。昔はこれほどではなかったが、近ごろはとみに増えた。みな、同じところへ向かっているようじゃな」 「山の中ですか?」 「紫のもやを見たじゃろう。あそこへ向かっているとしか思えん」 「あのあたりは、たしか……」 「うむ。石舞台のあたりかの」 山に潜む鬼や妖怪……。 草太は目的達成のための勇気がくじけそうになった。けれどもやめるわけにはいかない。今は亡き姉のために。そして、志乃のために。 「ばかなことを考えるでないよ」 ばばさまが柊で背をつついた。チクチクした痛みに身をよじる。 どきりとした。あのことはだれにも打ち明けていない。草太が一人で決め、一人で実行するつもりの目的。 「な、なんのことだか……」 「とぼけなくともよい。いつかはそのようなことを考える者が出てくると思うとった。……鬼を討つつもりなのじゃろ?」 草太は観念して認めた。鬼さえいなければ、贄など必要がなくなる。そう思い、剣術を習うことにしたのだった。 ばばさまは月明かりに浮かぶ岩木村を見渡した。 「岩木村の起こりは落ち武者の里だという。剣に魅せられる者が現れるのは不思議ではない。草太にも流れておるその血が騒ぐのかもしれん」 「おれは剣の腕を試したいわけじゃありません」 「わかっておる。草太は、初めは都に行きたがっておったからな」 そのとおりだった。最初に思いついたのは、うわさに聞く陰陽師のことだった。星や方位を見、占いもするし、術も使う。近ごろは都にも鬼やあやかしが人々を脅かしており、陰陽師が呪をもって解決しているという。 「陰陽師にきてもらいましょう。おれが頼みに行きます」 当時、草太はばばさまにそう提案した。ばばさまは静かに首を横に振った。 「陰陽師は朝廷の陰陽寮に属する身分じゃ。だからそれは無理じゃよ」 ならば、どうにかしてその力を学べないかと思った草太は、再びばばさまに相談した。ばばさまは言った。 「一流の陰陽師は生まれながらにして力を備えているものじゃ。今、都でもっとも力あると言われておる陰陽師は、白狐を母にもつという。この村にはそのような特異な生まれの者はおらん。みんなわしがこの手で取り上げたのだからまちがいない」 それ以来、草太はもうだれにも意見を求めなかった。なにを言おうと、止められる気がしたのだ。そして、鬼討伐のためにひそかに剣を習い始めたのだった。 「草太は幼いころから活発な子ではなかった。それがいきなり剣を始めるというのだから、目的があるに決まっておる。ま、寅吉は弟が男らしくなったというくらいにしか思っていなかったようだがの」 草太は黙っていた。ばばさまは再び「ばかなことを考えるでない」と言った。草太は答えない。ばばさまは声を出さずに笑った。 「正直なやつじゃ。口先だけでわかったと言っておけばよいものを。まあよい。これをお持ち」 ばばさまは草太にお守りを握らせた。首にかかるひもの先に小さなきんちゃく袋がついている。丸く硬いものが入っている。 「……ばばさま?」 「桃の種じゃ。魔よけには桃の実がよいが、桃の時期はすぎた。種でもないよりはましじゃろ」 「それじゃ……」 「無茶な若者はおろかなだけだが、目的のために力をつくすことを惜しまぬ者は勇ましい。わしはそのような者がきらいではない。たとえ掟や慣わしに逆らうことになろうともな」 穏やかな昼下がり、草太は庭で竹刀を振っている。喜助が濡れ縁に腰かけ、足をぶらぶらさせながらそれを眺めている。障子の開け放たれた部屋では、寅吉が家宝の手入れをしている。寅吉がふと手をとめた。 「草太、おまえ、剣の稽古はどうした?」 草太は素振りをやめた。喜助は、いざ自分の出番とばかりに、弾むようにして草太に手ぬぐいを手渡した。汗をぬぐいながら草太は縁台に腰かける。 「もうやめたんだ」 「なんだ、道場でなにかあったのか?」 「そうじゃないよ」 「まあいいんじゃないか。いくら剣の腕を磨いたところで武士になれるわけでもなし」 手入れのすんだ家宝をしまう兄の背を見つめながら、草太は小さく「うん」と答えた。喜助が残念そうに草太を見上げていた。
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