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「ぎゃあーっ!」  小夜子は下から引っ張られる力を感じた。落ちるというより、引きずりこまれるという方がしっくりくる。重力とはちがう別の力。もっとおぞましい、強い欲求。  谷底に引きずりこまれながら、小夜子の意識は遠のいていった。  気がついた時、目に映ったのは、左右にそびえ立つ絶壁だった。  たしかに落ちたのだ。夢でもなんでもなく。わかっていた。もうとっくに。この世界は実在するものだ。わかっていたはずなのに、なぜ疑ってしまったのだろう。岩隠れの谷からせり上がってくるような疑いに飲みこまれてしまったのは、恐怖心のためだったのだろうか。  小夜子はゆっくり立ち上がり、首や腕や足をひとつずつ動かしてみる。どこも痛くない。傷もないようだ。あの高さから落ちて無傷なんてありえないが、この世界に落ちた時もそうだった。注連縄を張った岩屋から落ちた時。そう考えると、ここではそういうこともありえるのだ。  もうなにも疑うことはない。どんなことでも起りうると信じている。なぜいまさら疑いを持ってしまったのだろう。そのことの方が信じ難いことだった。 「そんなことより」  小夜子は自分を元気づけるため、声に出して言った。 「どうにかして登らなくちゃ」  見上げると、白いものが壁を伝って降りてくるのが見えた。 「あ、管狐」  管狐は耳をピンと立て、小夜子の足元に走り寄った。小夜子はしゃがんで話しかけた。 「おまえ、どこに行ってたの? タエちゃんが心配してたわよ」  管狐はキョロキョロあたりを見回して、なにか言いたげに鼻をヒクヒクさせた。 「ん? どうしたの?」  小夜子が言い終わる前に、地面から無数の手が生えてきた。 「ひっ!」  干乾びて黒ずんだ手が、小夜子の足首をつかんだ。振りほどこうともがくと、その手はボコッとひじからはずれた。 「ひーっ!」  小夜子は声にならない叫びを上げ続ける。管狐は小夜子の体を駆け上り、頭の上に乗った。  はずれた手は、ボロボロに崩れて土くれになった。だが、次から次へと別の手が伸びてくる。小夜子は手足を夢中で動かした。しだいに手の持ち主たちの頭や体も地面から出てきた。手と同様に黒く干乾びた全身を現す。これが神楽の言っていた魔物にちがいない。立ち上がる力もないのか、両手も地面についたまま、動物のように動いている。 『小夜子』  突然、頭の中に声が響いた。 『落ち着くんだ。こいつらは餓鬼だ。魔物にはちがいないが、元はあんたと同じ人だ』  これはテレパシー? とっさにそんな言葉が思い浮かんだ。小夜子は自分にもできるだろうかと、試しに心当たりのある名前を心の中で呼んでみた。 『あなたは神楽?』 『いや』  声が返ってきた。ということは小夜子の心の声が届いたということだ。小夜子はさらに問いかけた。 『巫?』 『ちがう』  ぶっきらぼうで生意気な少年みたいな声。こんな話し方をする人がいただろうか。 『まさか……管狐?』 『よくわかったな』  声は楽しそうに答えた。 『おれは、こんな形でしか小夜子と話せない――おっと、餓鬼が後ろにいるぞ、気をつけろ!』  小夜子は餓鬼を振り払いながら管狐に語りかけた。 『テレパシーが使えるなら、もっと早く言ってよ』 『どうせ信じなかっただろ? ころあいを見計らっていたんだ』 『それにしては、ずいぶん忙しい時を選んだものね!』 『いやみを言うなよ。ひとりぼっちじゃないだけでも心強いだろ――ほら、右、右っ!』  餓鬼の指先が、小夜子の首筋に触れた。痛みに近いザラザラした感触がして、ゾワッと頭皮まで鳥肌がたった。怖さよりも不気味さに、小夜子の手足は震えた。半狂乱になりながら手足をばたつかせる。餓鬼がよりつかないようにしているわけではない。おぞましさのあまり、じっとしていられないだけだ。 『もう、なんなのよ! この餓鬼って!』 『小夜子が具楽須古の種を持っていると思ってるんだ』 『こいつらが具楽須古の種を手に入れてどうすんのよ。わたしの世界になだれこむつもり?』 『それだけが具楽須古の種の力じゃないさ』  管狐と言葉を交わしている間にも、餓鬼は無言の襲撃を繰り返してくる。彼らは声を発しない。きしむような、こすれるような音をたてて襲いかかってくる。  小夜子の足首をつかみ、地面から干乾びた頭を出すと、今度は両手で小夜子のももにつかまり、上半身へと登ろうとする。小夜子が引きつった叫び声を上げながらその餓鬼を振り落としているうちに、次は反対側の足を別の餓鬼につかまれている。  思いっきり腕を振り下ろすと、餓鬼の首はサクッといとも簡単に転げ落ちた。しかし、首から下はしっかりと小夜子にしがみついたまま離れない。気持ち悪さをこらえて、動かなくなった餓鬼の指を一本ずつはずしていく。その指はあまりにもろく、つまんだ瞬間にサクッと折れる。小夜子は顔をそむけながら、からみついた餓鬼の指をもいでいく。  サクッサクッサクッ。  餓鬼の体は枯れ枝ほどの堅ささえない。だから振り払うことは難しくないが、なにしろ数が半端じゃない。次から次へと地面から生えてきては、四つん這いになってわらわらと群がってくる。  喉の奥がヒュウヒュウ鳴る。息は吐くばかりで吸うことができない。苦しい。痛い。気持ち悪い。 「わたし、もう……だめかも」  小夜子の体力は限界が近づいていた。払いのける力のなくなった小夜子に、餓鬼たちが束になって襲いかかる。 『小夜子!』  叫ぶ管狐の上にも餓鬼がおおいかぶさる。  視界が暗い。だが、おおいかぶさっているはずの餓鬼たちの重みはない。それどころか、どこにも触れていない。右も左も上も下も……。  地面がない?  手をつこうにもなにも触れない。宙に浮いているようだが、妙に安定している。  襲いかかってきた山ほどの餓鬼の群れはどこへ消えたのだろう。そもそも、この空間はどこなのだろう。  しんと静まり返り、体温と同じ温度の空気が満ち、光もない。全てが『虚』。  そうだ、管狐は?  さっきまで乗っていた頭の上を触ってみる。――いない。 「管狐! どこ?」  声が反響する。声の余韻が消えるのを待っても、返事はない。消えてしまったのだろうか。  なにもない空間。ふと思い立ち、自分の体をあちこち叩いて、存在するかを確かめる。体は……ある。たくさんの餓鬼がおおいかぶさって……もしかして。小夜子は信じたくないことを思いついた。  これが餓鬼なのだろうか。今の自分は餓鬼と同じなのだろうか。餓鬼とは食料に飢えた者だと思っていたが、彼らはちがうのかもしれない。別のものに飢えているんだ。彼らも元は人だったという。わたしも餓鬼になってしまったの? これが……このなにもない空間が餓鬼の心の中だとでもいうの? 「……夜子……」  かすかに声が聞こえる。でも空耳かもしれない。 「小夜……どの……」  聞き覚えのある声。 「神楽……」  小さく呼んでみる。言葉にすると、おかっぱ頭に水干狩衣の小鬼の姿がはっきりと思い出される。鬼なんていないと思っていたけれど、神楽や多々良村の鬼たちは存在していた。夢だと思っていたことや信じられそうもない不思議なことも全て存在していた。耳を澄ますように、心を澄ましてみれば、あらゆるものが見えてくる。  小夜子の体に重みがかかった。ザラザラしたものがあたる。  餓鬼の体だ!  なにもなかったはずの空間はいつの間にか餓鬼で埋めつくされている。小夜子は思わず叫んだ。 「いやーっ!」  本物だ。餓鬼も神楽も管狐もこの世界も全て……! 助けて! 助けて! これは夢なんかじゃない!  ゴワッと下から押し上げられ、小夜子は再び谷底で餓鬼の群れに囲まれていた。 「小夜子どのーっ!」  絶壁の上から神楽の呼ぶ声がする。 「神楽ぁーっ!」  小夜子も叫び返す。  そして、頭にかすかな重みを感じ手をやると、管狐の尾が触れた。 「あんた、どこ行ってたのよ? 消えちゃったのかと思ったじゃない」 『あ? おれはずっとここにいたぞ』  なおも問いつめようとした時、またもや餓鬼がにじり寄ってきて、今にも飛びかかりそうに身構えた。  その時、ザアッと夕立を思わせる音がした。餓鬼たちが声もなくのたうち回る。ゆっくりひと呼吸するくらいの間があり、再びザアッと音がした。大粒の黒い雨かと思った。どういうわけか小夜子の上にだけは降らない。  コツンとつま先になにかが当たったのを感じて見下ろすと、無数の小石が散らばっている。管狐が小夜子の背中を伝って足元に降り、一番近くに落ちている小石をじっと見つめた。 『……石つぶてか』  そのつぶやきをかき消すようにザァッと石つぶての雨が降る。餓鬼たちは散り散りに逃げていく。石つぶては、つきることなく飛んでくるが、小夜子と管狐にはあたらない。 『小夜子、上を見ろ』  逆光にシルエットが浮かんでいた。大きな羽の生えた人の姿。うちわを振ると、石つぶてが飛ぶ。 「……天狗」  小夜子はつぶやいた。天狗が守ってくれている。  地中へと戻っていく餓鬼の群れ。小夜子はほっとしてその場に座りこんだ。軽いめまいがした。

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