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「ほら、がんばって」  小夜子は両手も使って、這うように登っていった。 「あとこれだけだよ!」  先に登りきった碧落の声援が聞こえる。  最後の一段を登ると、小夜子はその場に転がった。大の字に横たわり、まぶたを閉じた。胸が大きく上下して、耳の奥でドクッドクッと脈打つ音がする。  千百段もの高さだけあって、風が強い。だが、岩盤なので砂ぼこりが舞うこともない。 「どうぞお飲みください」  すぐそばで声がした。目を開くと、水の入った茶碗が差し出されている。小夜子は起き上がるやいなや、茶碗に飛びついた。少々いびつな形の茶碗はずしりと重く、小夜子はあやうく落としそうになった。  一気に水を飲み干すと、黙って茶碗を差し出す。その人はなにも言わずに手さげ桶から柄杓で水をすくい、茶碗に注いでくれる。  立て続けに五杯飲んだ小夜子は満足して大きなため息をついた。 「もうおかわりはよろしいですか?」  声をかけられて、初めて小夜子は水をくれた人を見た。まだ幼い男の子だった。七、八歳だろうか。十一歳の小夜子よりずいぶん小柄だ。  おかっぱ頭には、やはり角が生えている。まっすぐに切りそろえられた前髪の下には賢そうな顔。イラストでしか見たことのない水干狩衣を着ている。色は白で、花の形の飾りと胸ひもがついている。すそをしぼった形の袴。村の子のように裸足ではなく、草履をはいていた。 「あなたは……?」 「申し遅れました。ここの童子で神楽かぐらと申します」 「どうじ?」 「はい。こちらに住まわせていただき、学びながら雑用などをしております」  妙に礼儀正しい少年だ。着ている物も態度も村の子供とは明らかにちがう。 小夜子は、神楽と同じ年頃と思われる碧落と見比べた。それに気づいた碧落は、不機嫌な声で「なんだよ」と言った。 「よろしければ、そろそろ庵の方に。巫がお待ちです」  一同は神楽についていく。すぐに平屋が見えた。庵と呼ぶだけあって、粗末で小さい。屋根が笹の葉で葺いてある。なるほど、それで笹の庵と言うのか、と小夜子は納得した。しかし、草さえ生えていないこの土地のどこに笹などあるのだろう。小夜子は少し疑問を持ったが、夢なんてこんなものだと思い直した。  座敷に上がる前に、水を張ったたらいと手ぬぐいが用意されていた。なにに使うのかと見ていると、足を洗っている。小夜子もサンダルを脱ぎ、みんなの真似をして足を洗った。ついでに、大ばあちゃんちの縁側でほどいてしまった髪を再びふたつに分けて結わいた。  室内は板敷きで、人が座るところにだけ畳ともござともつかないものが敷いてある。隣の部屋との間にすだれが下がっている。神楽はその中に向かって声をかけた。 「異形なる者をお連れしました」  小夜子はそっと芙蓉に耳打ちした。 「ねえ、あのすだれは上げないの?」  芙蓉は人差し指を立てて「しっ」とたしなめてから、小さな声で答えた。 「あれは御簾っていうのよ。巫は童子以外には姿を見せないの」 「ふぅん」  硬い座敷に正座して待っていると、やがて御簾の向こうで衣ずれの音がして、女性の澄んだ声が響いた。 「お待ちしてました。いよいよ異形なる者の現れる時が来たとお告げがありましたので、今朝から心待ちにしておりました」  ゆったりと落ち着いた感じだが、明らかに若い女性の声だ。小夜子は意外な思いでその声を聞いた。村の人の言葉から長老のような人物だという印象を受け、巫は年老いた女性だと思いこんでいたからだ。 「異形なる者あらわる時、岩戸は開かれよう」  いきなり巫が古い言葉を口にした。 「これは多々良村に伝わる古い言い伝えです」 「どういう意味なの?」 「姿形のちがう者が現れる時、岩戸は開かれるだろう、という意味です。岩戸とは岩の扉のことですが」 「……はあ」  小夜子は気のない相づちを打った。異形なる者が小夜子のことであるのはとっくにわかっている。だけど、自分が岩のとびらを開ける? 十一歳の女の子にそんな怪力があると本気で思っているのだろうか。 「あなたは事の重大さがわかっていないようですね」  巫がため息をついた。小夜子は心の中で「あたりまえじゃない」と言い放った。 「まあ無理もありません。この土地を知らぬ者には。しかし、あなたも苦しんだでしょう。水がないことに。ここはご覧の通り、草木も生えない涸れ果てた土地です。ですが、初めからこのような土地だったわけではありません。そうであったなら、人々はここに暮らすことはなかったでしょう。元々は水も草木もある土地だったのです。ですからこの庵の屋根は笹ですし、多々良村の家々も木の板でできています。それがいつ頃からか水がかれ始めたのです。雨も降らなくなりました。それはもうはるか昔の話です。今となってはそのころのことを知っている村人はひとりもおりません。それでもわたくしたちは祖先の愛したこの土地を離れようとは思いません。言い伝えがあるからです。異形なる者あらわる時、岩戸は開かれよう、と」 「ちょっと待って」  小夜子はさえぎった。 「まだわからないんだけど」 「はい?」 「水がなくなったことと岩戸の関係が」 「水源がそこなのです。岩戸が閉じられる前はそこから清水が湧いていたのです。しかし、岩戸が閉じられたので、水が涸れてしまいました。ですから岩戸が開かれ、再び水が多々良村まで行き届くよう願っているのです。それができるのは異形なる者だけなのです」 「あ、でも、ほら。たしか多々良村に井戸があるって……」 「ええ。ひとつだけ。それもいつ涸れるとも知れません。なにしろあの水は地下水ではないのですから」 「どういうこと?」  井戸を見たことのない小夜子にだって、それが地下水を汲み上げたものだとわかっている。水脈を探しあて、そこから涌き出る水を井戸としているのではないか。 「あれは天狗さまがくださった涌き水です」 「は?」 「天つ山というのがその岩戸のある山ですが、そこまで行かないと水はありません。その昔、一日がかりで天つ山まで水を汲みに行った若者がおりました。彼は村のための水だからと、かついだ桶の水を自分では一滴も飲まずに帰ってきました。そのため、夜遅くにやっと多々良村に着いた時には、ほっとしたのでしょう、その場で倒れてしまったのです。もちろん、若者が誠意をもって運んだ水もこぼれてしまいました。乾ききった地面はみるみるうちに水を吸いこんでしまったのです。しかし、翌朝になると、そこからぶくぶくと水が涌き出てるではありませんか。村人たちは口々に言いました。これは天つ山の天狗さまのお慈悲だと。若者の誠意が天狗さまに届いたのだと」  そういうことを本気で信じている人たちの気が知れない、と小夜子は思った。若者は立派だと思う。けれども、水が涌き出たのとは別問題だ。ある日突然水が涌いたとして、なんの不思議があろう。以前は水があった土地だ。地下水は流れ続けていたと考えればすむことだろう。 「異形なる者よ」  巫はゆっくりと力強く語りかけてくる。 「天つ山の岩戸を開いてくれますね?」  小夜子の答えは決まっていた。 「いやよ」  その場にいるだれもが驚き、小夜子の顔を見た。 「……なんと!」  巫も絶句した。 「あんた、今までの話を聞いてなかったのかよ?」  立ち上がった碧落が怒りをあらわにした。 「自分がここの人じゃないからか? おれたちのことは関係ないっていうのか?」  小夜子は苦笑した。 「そうじゃないわ。わたしで助けられるなら助けたいと思うわよ。目の前で困っている人を見捨てるほど冷たい人間じゃないわ」 「それなら、どうして!」  つめよる碧落を小夜子は全く相手にしない。芙蓉がうつむいたまま諦めの口調で言った。 「……信じてないからよ」 「どういうことだよ、姉ちゃん」 「この人はこの世界の存在自体を信じていないのよ。自分の知っている世界だけが現実だと思っている」 「……なんだよ……それ」  姉弟はくやしさと悲しみに包まれた様子で、口を閉ざした。巫が静かに小夜子にたずねる。 「異形なる者。この者の言葉にまちがいはないのですか?」 「そうよ」  小夜子は素直に認めた。しばしの沈黙の後、巫が御簾の向こうで燭台のろうそくに火を灯したのがわかった。小さな明かりがちらちらと透けて見える。 「神楽」 「はい」  巫に呼ばれた神楽は正座したまま姿勢を正し、巫が座っているであろう位置に顔を向けた。 「おふたりにはお帰りになっていただきましょう。あなたたち……」  巫はなぐさめるように姉弟に声をかける。 「芙蓉と碧落でしたね? ご苦労様でした。気をつけて多々良村へお帰りなさい」 「でも……」  不満の残る芙蓉を巫はそっとさえぎる。 「案ずることはありません。わたくしに任せてください」  そう言われてはもうどうすることもできない。芙蓉は一礼すると、碧落の手をとった。神楽もすっと立ち上がる。 「外までお送りしましょう」

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