具楽須古の種(ぐらすこのたね)
〈月読の掟 志乃の章 其の一〉

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 志乃の両親はひとり娘にあまく、志乃はかなり自由にさせてもらっている。  父の権蔵は志乃が十をすぎたころから病にふせがちで、今では小さな田んぼも人に譲り、母の喜久が機を織って生計を立てている。病人と女ふたりの食い扶持なら充分間に合っている。  志乃も機織りを手伝うと言ったことがあるが、喜久はなぜか悲しげな笑みを浮かべ「家のことは心配ないから、自分の好きにおし」と言った。そこでうなずいておくのが母の望みだとわかったので、志乃はその言葉にあまえることにした。  十六になった今でも、炊事を手伝うほかは幼いころと変わらぬ生活をしている。少なくともまわりからはそう見えることだろう。  実際は大きく変わっていた。月読の祭の日以外はだれひとり近寄らない石舞台に、毎日通うようになったのだ。  そのことを隠さずにいたところ、村中から変人扱いされるようになってしまった。だが、志乃は気にしなかった。そんなところも変わって見えたのかもしれない。  気づけば、幼いころと変わらずに接してくれるのは草太だけになっていた。  草太が好意を持ってくれていることに気づかないわけではない。志乃も草太が好きだ。しかし、志乃にとっては幼なじみとしての思いでしかない。  そしてなによりも、志乃は夫を持つ身であった。  志乃に夫があることはだれも知らない。両親にさえ隠している。それゆえ、共に暮らすことはかなわない。それでも志乃はだれにも打ち明けるわけにはいかなかった。言えばだれもが反対するに決まっているからだ。  今日も志乃はひとり山へと入っていく。石舞台で夫と会うためだ。村人の近づかない石舞台は恰好の待ち合わせ場所だった。そしてふたりの出会いの場所でもあった。  ふもとの道からはずれ、熊笹をかきわけていく。葉で切らないように、両手を着物のそでの中に入れて道を開いていく。志乃はいつも五年前に初めてここを通ったときのことを思い出す。  その年の月読の贄はお信だった。  お信は、いつも草太とつるんでいた志乃を実の妹のようにかわいがってくれていた。志乃の方もしっかり者のお信を慕っていた。そのお信が贄として差し出される。まだ幼い志乃と草太にお信を救う力はなかった。いや、そんな力はだれにもない。  しかし、お信は帰ってきた。  ばばさまと村の男衆数人が石舞台に贄を捧げて村に帰ってくると、祭が始まった。月読の祭の儀式はすんでいるから、村人はすっきりした心持ちで飲んで食べてにぎやかにすごした。  草太の家の人たちだけが祭の輪からはずれ、ひそかに供養のために飲み食いをしていた。志乃は少し離れたところから、草太たちを見るともなしに見ていた。身内でないから供養に加わることもできず、かといって、ほかの村人たちのようにこれでまた一年が無事にすごせると喜ぶこともできなかった。  志乃のうしろには山へとむかう道がのびている。ふと人の気配を感じて、なんの気なしに振り向いた志乃は息を飲んだ。志乃から三、四歩離れたあたりにお信がへたりこんでいたのだ。 「お信さん……?」  お信はびくりとし、ゆっくり視線を志乃に移した。 「……あたし……あたし……」  お信は山を指差し、必死になにかを伝えようとするが、歯がカチカチ鳴るだけで言葉にならない。  志乃はとっさに山にむかって走り出した。お信はすっかり腰がぬけていて、とてもここまで歩いて逃げてきたとは思えない。だれかがお信を連れてきたのだ。  山のふもとまで行くと、熊笹がガサガサ揺れている。だれかが山へ入っていくのだ。志乃もあわてて追いかけたが、熊笹の葉が容赦なく志乃のやわらかな肌を傷つけ、足場の悪さが志乃の行く手をはばんだ。葉を揺らす音はすでに遠のき、なに者の姿も見えない。  とても追いつけないと諦め村に帰ると、さっきと変わらぬ姿勢のお信が村人たちに囲まれていた。動くことはできないが、話はできるまで落ち着いたらしく、懸命にみんなに訴えていた。 「鬼が帰れと言ったの。ほんとうよ。ここまで抱えてきてくれたのよ」  ざわめく村人の輪をかきわけて、寅吉がお信の肩をつかんだ。 「にいさん……」  お信は安心して涙を流した。寅吉はそんな妹の肩を激しく揺すった。 「なんてことをしてくれたんだ!」 「え?」 「おまえには恥というものがないのか! 今まで逃げ帰った贄などいないぞ!」 「いいえ、逃げたわけでは……」 「言い訳なぞ聞かん。おれたちだって、おまえが贄になって平気なのではないぞ。だが、村のためを思えばしかたのないことなんだ」 「そうじゃないの」  お信の弁解は村人の声にかき消された。 「贄のくせになぜ逃げた!」 「岩木村がどうなってもいいのか!」 「鬼が贄に帰れなど言うものか!」  村人の大半はお信の言葉を信じず、鬼が怒るにちがいないとおびえた。そこにばばさまのしゃがれ声が割って入った。 「お信の言うことはほんとうのことじゃろう」 「ばばさま! そんな言い分が通るわけない!」 「いや。鬼が帰れということは、贄としてふさわしくないのじゃろう。鬼でさえきらうほど穢れているにちがいない」 「そうじゃないわ!」  志乃は輪の一番外側から声を張り上げた。しかし、恐怖にかられた村人たちはひとつの結論にたどり着いていた。それは、お信を始末することだった。  村人たちはとりつかれたように残酷な儀式を行った。前例があってその手順をふんでいるのか、半狂乱になった頭がそうさせたのかはわからない。だが村人たちは、まるで決められたことをこなしていくように手際よく儀式をすませ、肉と骨になったお信を再び石舞台に捧げたのだった。  後日、それがなくなっているのを確認して、ようやく村は落ち着いた。  そのときのことは五年後のいまでもはっきりと思い出すことができた。狂気の気味の悪さ、原型をとどめない人間の生々しさ……それらは志乃に恐怖とともに悲愁をあたえる。  熊笹の茂みが開け、石舞台が姿を現した。木が一本も生えていないその空間はぽっかり開いた異界への入り口のようだ。さえぎるもののない頭上は青空が広がっている。はこべやおおばこが地面をおおいつくしている。その真ん中に二畳ほどの平岩がぽつんとある。月読の祭を始めた人々が岩を削り、ここに運んだのだろう。山の草木に囲まれた中でこの空間はあまりに異質だった。  葉ずれの音や鳥の声を聞きながら、志乃はそっと石舞台に触れた。日をたっぷり浴びてほんのり温かい。 「おお、志乃じゃねえか」  日に焼け、ひげを生やした中年の男が親しげに近づいてきた。志乃は笑顔で答えた。 「ぜんさん、お久しぶりですね」 「おうよ。ちょっくら山伝いに都の近くまで行ってたんだ」 「あら、ずいぶん遠くまで……。それは大変でしたね」  善はがははっと笑った。 「なあに、山で鍛えたこの足ならどうってことないさ」  そう言って脚絆をつけた足をぱしんとたたいた。  善は山人さんじんである。自らそう名乗るわけではないが、ふもとの村々ではこうした山に住む男たちを山人と呼び、避けた。村に住む人々からしてみれば、山姥や山男、天狗や鬼となんら変わらないのだった。以前は志乃もそう思っていたが、実際こうして親しくなってみると、ごく普通の人である。 「それで都だがな」  善は表情をひきしめた。 「ずいぶんと荒れているようだ」 「荒れているって?」 「なんでもしょっちゅう鬼や物の怪が出るって話だ。百鬼夜行に出会ったやつらもいる」  志乃は顔をしかめた。 「それって、異界に帰れなくなってこっちに取り残されたってこと?」 「そうだろうな。帰るに帰れず、さまよっているところを都人に見つかっているんだろう」 「都でもここと同じことが起こっているのね……」  少し前までは人々にとって異界は身近な存在だった。もちろんすべてに親しみを持っていたわけではない。恐れや尊敬に値するあやかしもいた。それらがしだいに忘れ去られていく。存在を否定されていく。そうして異界はどんどん遠のいていくのだ。 「このことを雲海にも話したんだ」  男は志乃の夫の名を口にした。 「あの人はなんて?」  こちら側に取り残された異界の者たちを思い、心を痛めているにちがいない。 「なんとも言わなかった。なにも言えないんだろうな」  そうなのだろう。異界との隔絶はどうすることもできない。あの人もここで異界の存在が薄れていくのを感じているしかないのだ。 「志乃、雲海は岩屋にいるぞ。行ってやれよ」  志乃は男に礼を言うと、山の斜面を登っていった。

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