「お邪魔しますー。咲子ちゃん、こんにちは!」 リビングに入ってきた伊織さんは、今日も爽やかに笑っていた。髪が短くなったからだろうか。前よりずっと凜として見える。 「え、もしかして紫村伊織さん!?」 背中に大きな声が飛んできて、振り返ると、杏奈さんが目を丸くして立ち上がっていた。 「ピアニストの紫村さんですよね!?」 「うん、そうだけど……」 「杏奈さん、知ってるの?」 ぐいぐい近づいてくる杏奈さんに、伊織さんは少々困惑気味だ。私もびっくりしちゃった。杏奈さん、さっきまで控えめだったのに。 「知ってるも何も、超有名人じゃん! 奏ちゃんと一緒にコンサート行ったことあるし!」 「そうなの? 鷹丘くん、全然そんなこと言ってなかったけど」 「照れてるだけですよー! あの、握手してもらってもいいですか?」 「もちろん。私でよければ」 伊織さんに握手してもらい、杏奈さんはとても嬉しそうだ。さっきまで重かった空気が途端に明るくなる。やっぱり、杏奈さんはこうでなきゃ。 「あ、奏ちゃん」 礼服に身を包んだ奏くんが、不機嫌な顔でリビングに入ってくる。どうやら待ちくたびれたみたいだ。 ――まだ?―― 「ごめんごめん。じゃあ、みんな席に着いてもらって」 軽く手話を返し、テキパキと仕切り出す兄。奏くんと兄は初めこそ衝突していたけど、今ではすっかり気兼ねしない仲だ。互いのピアノに対する思いに、通じるものがあったんだろう。 少し羨ましかったりもする。私はピアノ、まるでダメだから。だから余計に憧れるのかもしれないけど。 一音一音の重なり方、つながり方、抑揚、バランス。誰が弾いても同じってわけじゃない。個性っていうか価値観っていうか、そういうものがちゃんと反映されて。初めて音楽は完成する。 ――どうぞ―― 兄の手話を受け、ピアノへと歩き出す奏くん。光が降り注ぐ、吹き抜けの下。スマートにお辞儀してみせる。 ここは私の家で、そこにあるのは兄のピアノで。頭では理解できるのに、目に映るものが違う。ここは舞台だ。奏くんのために用意された、舞台。 慣れ親しんだソファーに座っているのに、息の仕方がわからなくなる。それでも瞳だけは懸命に奏くんを映すのだから、私はとても正直な生き物だ。 ポーン。静かに広がる、繊細な音の欠片。落ちてくる光の粒は、ただ奏くんを照らしている。なんて美しい世界。 奏くんの手が動き出す。丁寧に、大胆に。あざやかに、穏やかに。奏くんの音が世界に溢れてくる。 ――私は。この音をずっと、待ってたんだ。 生きていてよかったなんて、今まで思ったことはなかった。何の取り柄もないし、人付き合いも苦手だし。普通に生きるということが、私には何よりも難しかった。 でも今、生きていて。ここにいられて、よかった。
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