天使の脳みそ
夜、メイドと秘密の時間。

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 毎晩九時になると、メイドが部屋にこっそりやってくる。本当は眠らなければならない時間だけど、彼女とはある約束をしているのでこうしてベッドで待っていたのだ。 「お待たせしました、お嬢様」  メイドはしずしずと歩み寄り、隣に腰を下ろした。肩と肩が触れあう。 「今宵も練習をいたしましょうね……」  ふ、と甘やかな吐息。桃色の柔らかな唇が近づき、ゆっくりと重ねられた。しばしそのまま留まって、やがてふいと離れていく。  胸の中で獣のような何かが首を擡げた。足りない。もっとちょうだい。そう彼女に縋りつく。  メイドはくすっと笑った。ベッドサイドの灯りを消し、辺りは暗闇に包まれた。  冷たい手が頬に添えられる。頭を撫で、頬を撫で、彼女の声が静かに響く。 「さあ、もう一度……」  甘美な香りが鼻先を掠め、しっとりと湿った唇が重ねられる。それだけで、天にも昇る心地だった。  *  メイドの雇い主は屋敷を所有する大商人だが、彼女の仕える主は幼い子どもであった。輝く白金の髪、ガラス玉のような青い眼。初めて見たときは大きな人形かと錯覚したものだ。  メイドは身の回りの世話と家庭教師を兼ねていた。小さな主人は彼女の優しさに心を許し、教える言葉に耳を傾け、聖母のような眼差しに甘えた。二人の仲が深まるほど、主人は些細な悩みを打ち明けるようになった。最近パパがうるさいの、水曜のシェフのデザートが口に合わないの、廊下のあの花が怖いの……  小さな主人が十二の歳を迎えた夜、メイドは寝室に呼び出された。 「どうなさったのです、もうご本をお読みするお歳ではありませんでしょうに」  主人はベッドで上体を起こしたままもじもじとしていたが、やがて小さく口を開いた。 「恋、ってどんな感じなの?」  メイドははっとした。まだ幼い子どもだと思っていたが、主人はとっくに思春期に入っていたのだ。 「恋……そうですね、一緒にいるだけでどきどきして、胸が甘く焦がれるような、そんな感覚でしょうか……」  首を傾げ、悪戯っぽく訊ねてみる。 「好きな方ができたのですか?」  途端に、明らかな動揺の兆しが見えた。主人はやがてぎこちなくうなずき、堰を切ったようにたくさん質問を浴びせた。人と恋仲になるとどんなことをするのか。例えば、物語で男女はキスをする。それは一体どんな風なのか……  長い間傍にいた愛する主人が、まったく見知らぬ者に夢中になっている様は見ていて苦しかった。その真剣な声を耳にしながら生唾を呑む。視界が赤く揺らいでいる。 「……坊ちゃま」  気づけば、メイドは主人の手に手を重ねていた。心臓が脈打ち、手のひらが汗ばんでいる。 「キスは、練習が必要ですわ」  意中の女性を前にしていきなり成功はしない、皆こっそりと練習するのだ、と告げると、彼は頬を真っ赤に染めた。 「そうなの……」 「よろしければ、私がお手伝いいたしましょうか」  彼の大きく見開かれた眼を覗き込みながら、メイドは悩ましく嘆息した。 「ああでも、私とあなたでは立場が……到底許されることではありませんわ。罪悪感に胸が痛みます」 「どうすればいいの」彼は上ずった声をあげた。「なんでもする。教えて」 「そうですわね……」メイドはわざとらしく視線を宙に投げた。「こういうのはいかがでしょう」  これはあくまで練習だ。小さな主人はお坊ちゃまという肩書きを捨て、代わりにどこかのお嬢様という架空の役割を演じる。 「夜の九時、私がお部屋に入った時点で、もうここは架空のお屋敷の寝室です。そこの〝お嬢様〟とメイドがキスの練習をする……その設定を演じてくださるならば、私も心が痛みませんわ」  無茶苦茶な提案にも関わらず、無垢な主人は素直に受け入れた。メイドの用意したレースのネグリジェを身に纏い、毎晩ベッドで彼女を待つ。その天使のような姿のなんと愛らしいことか。なんといじらしいことか。  いたいけな主人を唆す背徳感にぞくりと体を震わせて、唇を味わう。甘美で罪深い。今はこの時に浸っていよう。彼がいずれ「男」となりこの手を離れるまで……  *  メイドと自分が結ばれるなど許されないことくらい、重々わかっていた。でも気持ちを抑えられなかった。  彼女の冷たい手を握り、柔らかな唇に唇を押し当てる。自分は今、架空の令嬢……この時間だけは自由なのだ。  やはり彼女は優しかった。僕のために心をつくし、キスの練習が必要だと思い込んでくれているのだから。でも練習じゃない。毎晩あなたに本気の想いをぶつけているのだ。ゆくゆく父の家督を継ぎ、ようやく言葉で伝えられる時がきたら。もっと深く、あなたを愛したい。もっともっと……  その時がくるまで耐えられるだろうか。彼女の唇に触れるたび、胸の中の獣は飢え、悶え苦しんでいる。いつまで無垢な子供を演じられるか、わからない……

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