天使の脳みそ
メレンゲのあじ

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 冷蔵庫を開けた。目の前に小さな銀色のボウルがあった。白い塊が入っているので取り出して舐めてみる。舌は甘みを待ちわびていた。ところが不気味な苦みが襲ってきたので思わず吐き出した。  生クリームだと思ったものはメレンゲの塊だった。無味無臭のメレンゲで苦い思いをさせられてしまったのだ。手の込んだいたずらである。なぜ冷蔵庫に入れ、ご丁寧にも隣に生クリームのパックまでおいてあるのか。少しばかり悪態をついたところで、ようやくあることに思い至った。  この家にはわたしが独りで住んでいる。つまりわたし自身がメレンゲを作り、なぜか大層にボウルへ入れて冷蔵庫にしまいこんだのだ。しかしこんなことをした記憶が全くなかった。これは大変なことだった。  いったいいつの出来事なのだろう。わたしはボウルの中の卵塊を観察した。泡がくずれてきているが、まだしっかりと白い塊の姿を保っていることから、そう長い時間は経っていないと思われた。  そういえば、今日は一日暇だと考える。せっかくメレンゲがあるのだからケーキでも作ってしまおうか。もしかしたら、記憶にない自分自身が、先に思い立って準備していた可能性がある。わたしは台所のあちらこちらから、材料と道具を引っ張り出した。スポンジケーキの材料はすべて揃っていた。泡立て器もボウルも型も、きちんと洗っておいてある。  そうだ。どうせ作るなら、誰かにお裾分けをしよう。  その誰かには心当たりがあった。向かいの家に住むあの人だ。急に持って行って驚かしてみようか……わたしの心は弾んだ。わたしはあの人のことが好きなのだ。あの人が引っ越して来たのを見て、激しい一目惚れをしてしまったのだ……。  とりあえず手元の卵塊はおいておき、わたしはケーキ作りにとりかかった。バニラオイルの甘い香りを嗅ぐとあの人の姿を脳裏に思い浮かべてしまう。ぎゅうっと胸が締め付けられる。はじけ飛びそうな心を抑えきれず、わたしは窓に駆け寄りカーテンを思い切り開けた。シャッと小気味の良い音と共に、鮮やかなオレンジ色が飛び込んでくる。  彼方に沈む夕日。照らし出された一本道。その沿いに真新しく小さなメゾネットが建っている。わたしはその真ん中の部屋のベランダに目を凝らした。締め切られた窓に薄いカーテンがかかっていた。  重なり合う人影があった。白いカーテンが、二つの影の溶け合い倒れゆく様をくっきりと映し出した。焼け付くようなオレンジ色がベランダに揺れるスカートを照らしていた。  すべてを知った。すべてを思い出した。手からバニラオイルの小瓶が滑り落ちた。  気がつくと、わたしは暗い部屋のソファでうずくまっていた。  今日は一日暇だったはずだが、まさかずっと眠ってしまっていたのだろうか。わたしは部屋の明かりをつけた。  かすかに、バニラの香りが漂っている。妙な喉の渇きを覚えた。立ち上がり台所へ向かう。冷蔵庫に手をかけた。舌が、いや心の底が、無性に甘みを求めていた。  冷蔵庫を開けたら、小さな銀色のボウルに入った白い塊を見つけた。食べた。吐き戻した。生クリームだと思っていたものは、卵白の塊だった。隣に置かれた生クリームのパックを睨みつけた。いったいなぜわたしがメレンゲなぞ作り置きしていたのか、全く記憶になかった。  舌に残る無味無臭の苦み。わたしは甘みを待ちわびていたのに。心当たりのない涙がとめどなく溢れ出す。唇を伝う涙は無機質で、味気なく流れ落ちていった。

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