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 月下に輝く雪の群れ。雪の精は、眼下に広がる一面の闇を見た。闇はよくよく目を凝らせば天鵞絨のごとき艶を持つ黒薔薇園であり、興味を惹かれたのでふわりふわりとその地に舞い降りていった。 「我が城へよく来たな、雪の精よ」  威厳に満ちた低い声。雪の眼前にいつの間にか男が座っていた。黒薔薇に囲われた飾り石の上に足を組み、優雅に酒を呑んでいる。彼は神々しいまでの容貌をしていた。宵闇の中でもひときわ目立つ美しい長髪、瞳は黒い花でも咲いたように深淵の黒で、ぞくりとするような妖しさを放っている。 「ここ、あなたのお城なんですか?」  雪が訊ねると彼はまた酒を呷った。彼の左耳には透き通った金の雫を模した耳飾りが下がっており、彼の優雅な所作に合わせて燦然と輝いている。 「この一面の黒薔薇園がそうだ。だが私は全てを、伯爵夫人……ルイーゼに捧げている。よってここは彼女の城でもあるのだ」  雪は改めて辺りを見渡した。黒薔薇に埋め尽くされた庭はまるで黒い海原のようである。 「ルイーゼ様は、黒薔薇を愛されているのですね」 「そうだ。特に我が種……『青夜帝』を所持する数少なき選ばれし者。彼女の血筋でしか育たぬからな」 「きっと、さぞかしお美しい方なのでしょうね」  言いながら、雪は、彼の美貌にこそ心を奪われていたのだが、恥ずかしくて口には出せなかった。 「ああ、世界で一番美しい、私の姫だ。いつまでも……」  青夜帝は語った。彼女の幼少の頃から見守り続けてきた長い人生について、酒を片手に朗々と。  間もなくして北風がふきつけてきたので、雪はふわりと浮かび上がった。 「すみません、もうおいとましなければ……」  風に乗り、世界を旅するのが雪の宿命であった。それがこれほどまでにつらく悲しいものだとは思わなかった。 「来年もきっと訪れられますように」 「ああ。いつでも来るがいい」  青夜帝に見送られ、雪は遠く夜空の彼方へ消えていった。  季節は巡り、地表には再び極寒の風が吹きつけた。雪は地表を彷徨っていた。あの美しい貴公子に会いたい一心だったが、風の流れは気まぐれで、いつどこへ飛ばされてしまうかわからない。雪は見覚えのある景色にしがみつき、てこでも流されまいとしながら黒薔薇園を目指していた。  空は塗り込めたような分厚い雲に覆われていた。記憶の中の庭園はどこにも見当たらない。  なぜ――焦り、惑いながら必死に飛び回り、雪はようやくそこを見つけた。  遥か地表からもうもうと黒煙がいくつもたちこめている。その真ん中に半身を瓦礫と化した黒焦げの城がぽつんと立っていた。その周囲は無残にも焼けただれ、かつての黒薔薇の海原は影すらも残っていない。  青夜帝さま! 雪は叫び、我を忘れて辺りを飛び回った。白い体が黒煙に穢れるのも構わずに。  やがて、雪はゆっくりと動きを止めた。しんしん、体がまっすぐに落下していく。焼け広がった地の隅に横たわる人影をみつけたのだ。それは全身が炎に焼けただれ見るも無惨な姿であったが、それが誰なのか、雪にはわかっていた。今にも崩れそうに炭化した右頬の上に、ぽっとひと筋、金の雫が光っていたのだ。  青夜帝の左耳にも同じ耳飾りが輝いていた。これは対を成しているのだ――  はらり、雪は人影の伸ばした腕の先に降り立った。まるで指先でかきむしったように、土には細い溝がいくつも這っていた。その片隅にきらりと光るものがある。  青夜帝は夫人を愛していた。だが同時に、彼女もまた青夜帝を愛していたのだ。彼女は愛情の印に、彼の根付く土の中へ耳飾りの半身を埋め、分け与えたのだ。  炭化し崩れた指の跡は、土に埋もれた金の雫にしっかりと触れていた。ああ、なんて熱い……この身が溶けてしまいそうなほどの愛……!  黒煙の立ち上る静かな灰色の世界を、突如として野太い声が貫いた。 「戦争は俺たちの勝ちだな」 「ああ、だが惜しいことをした。あの有名な『青夜帝』を一株でも持って帰ってやろうと思ってこの地域へ志願したんだが、あの女、庭に火を放ちやがったんだ」 「そりゃ残念だったな。祖国に持って帰りゃ高く売れたのによ」  静寂を突き破る下卑た声。醜い声。雪の体は熱く憤怒を纏って立ち上がった。男たちが戻り行く背中に猛烈な吹雪が吹きつける。 「な、なんだ!」  悲鳴を上げ、丸めた体で縮こまるが、叩きつけるような雪塊が容赦なく襲いかかる。彼らの穢れた魂ごと覆い尽くすように、あたり一帯が冷たく凍り付いていった。  吹雪となった雪の精は、一瞬だけ振り返る。かつての黒薔薇園……そこだけは、そっとしておきたかった。自身の纏う怒りの風で乱してはならない。二人の仲を裂いてはならない。  ――さようなら、青夜帝さま。  立ち去る雪の背に、低く優雅な声がこだまする。    またいつでも会おう、雪の精よ。

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