早春の向日葵
12 試験前日

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 二月は逃げ、三月は去ると言うが、本当にあっという間に二月は終わった。  私の部屋のカレンダーの赤丸印をつけた入試の日も近づいてきて、一つのゴール地点が見えているにもかかわらず、日に日に気鬱になっていった。  母との面会は二月に二回できるはずだったが、一回しか会えなかった。二月の上旬に会えた時には私と会話はしなかったが、伯母とは少し意味の通る話ができるようになっていた。なのに、下旬に予定されていた面会は中止になった。私たちの前に面会に来た父との間で何かあったらしく、母に「誰にも会いたくない」と拒否されたのだ。  さすがに父に電話して面会で母と何を話したのか聞くと、家に帰りたいという母にもう少し病院にいた方が良いと勧めただけだという。その時父も何故か機嫌が悪く、早々に電話を切られてしまった。  良くならない母の病状。  修復しない両親の仲。  受験への不安。  様々なマイナス要因で私の気は重くなる一方の中、唯一私を支えたのは太陽の存在だった。  太陽は変わらない態度で、時々私に声をかけてくれた。大した話もせず挨拶だけの時もあったが、それで十分だった。  私はもう自分から太陽に話しかける事を諦めていた。好きな子がいると言った太陽に私から積極的にアプローチするのは、邪まな行為に思えたからだ。  太陽が好きな子に告白したという噂もなかったので未だに片思い中なのだろうが、もしかしたら相手の女の子も太陽の事が好きなのに言えないだけで、二人は思い合っているのかもしれないと考えると、割り込んで行く気にはなれなかった。  父の愛人は「取られる方が間抜け」と言った。真実そうなのかもしれない。欲しい物は欲しいと言った方が勝ちの世の中だ。  自分の欲望に忠実な人間が得をするのだとしても、私はそれを肯定できなかった。あんな女と同じ種類の人間にはなりたくないという意地もあった。  それでも心は時に大きく揺れ動いた。  昼の間は自制が効いても、夜は駄目だった。一人自室で受験勉強していると不意に孤独に押し潰されそうになり、たまらなく太陽に会いたくなるのだ。  あの笑顔が見たくて、あの声が聞きたくて、当てもなく家を飛び出して行きたくなる。  誰の目も気にせず、太陽に好きだと言ってしまいたくなる。  だけど、卒業して、太陽に会えなくなって時が経てば、私は他の人を好きになるかもしれない。太陽の笑顔も声も忘れてしまうかもしれない。  ずっとずっと、太陽だけを想って生きていけないかもしれないなら、好きな人がいるという彼を浅ましく自分の方へ振り向かせようとせず、ただのクラスメートでいるべきだ。  それでも私の目は、心は、太陽を追いかけて止まない。  ふと弥生の言った言葉を思い出す。  向日葵は一途で寂しい花。  そうだ、本当に寂しい。  季節の終わりと共に無残に萎れ枯れ果てて行く花の末路は、私の心によく似ている気がした。  エリ女の入試が行われる前日の放課後、弥生に寄り道しないかと誘われた。 「あの、私、明日入学試験で」 「うん、だからだよ」  何が「だから」なのか分からない。彼女との会話はこういうところが時々困る。 「悪いけど、今日は早く帰って準備しないといけないの」  明日の事を考えて緊張していた私は、独特の話し方をする彼女に付き合う精神的余裕がなかった。 「誘ってくれたのに、ごめんね」  彼女は特に気にした様子もなく頷いた。  学校から帰宅した私は事務所の駐車場に父の車が停めてあるのを見つけた。  母の事で伯母が激怒していると知っている父が訪ねてくるなんて余程の事だ。私は妙に嫌な胸騒ぎがしてそっと玄関から入り、事務所のドア越しに様子を窺おうとした。瞬間、 「冗談じゃないわよ! ふざけないで!」  伯母の怒鳴り声が響いた。 「今すぐ帰って!」  そうはいきません、とくぐもった父の声も聞こえた。 「あんたの事最低な人間だと思ってたけど、これ程とは思わなかったわ」 「だから、私も急いでいるから仕方がないと説明してるじゃないですか」 「あんたの都合なんて知らないわよ。美咲ちゃんが帰ってくる前にとっとと帰って」  会話の内容が理解できず、ドアの隙間から洩れる声に聞き耳を立てる。 「美咲にも話を聞いてもらいたいから、この時間にわざわざ来たんです」 「聞かせられるわけないでしょう。県外へ転勤になったから離婚協議を早く進めたいなんて勝手な話」  県外へ転勤。離婚協議。  私の頭の中で予想外の言葉が渦を巻く。目の前のドアが自分の未来を暗く閉ざす無慈悲な扉に見えた。 「転勤はしません。今の会社は辞めるつもりなんです。……会社に居づらくなった事情もあって」 「どうせ喜美子の自殺騒動で会社に不倫してるのがばれたからなんでしょう。ああ、転勤はそれが理由の左遷なのね」  伯母の皮肉を無視して父は話を続けた。 「会社は辞めても、県外に出る予定ではあるんです。大学時代の友人が会社を興す事になって、来ないかと誘ってもらっているので、そこに行こうかと」 「で? 美咲ちゃんはどうするの? 連れて行くの?」  父は答えなかった。それが何より明白な答えだった。  「まさか、あの女と一緒に行きたいから早く離婚したいって言うんじゃないでしょうね」  しばらくの沈黙の後、「そうです」と重く苦しげな父の声が聞こえた。 「彼女に……子供ができたので」  この世には後悔しても後悔しきれない時がある。その時が正に今だった。  私は何故、立ち聞きなんてしてしまったのだろう。  何故、真っ直ぐ学校から帰ってきてしまったんだろう。  何故、この父の娘に生まれてきてしまったんだろう。  ドアの向こうでカップを床に叩きつける音がした。 「あんたって男は! そんな話を今、美咲ちゃんにするつもりだったの?」 「私は父親として、美咲にできる限りの誠意を示したくて本当の話を」 「黙りなさい! 父親って言うなら、明日がどんな日か知ってるでしょう! 明日、あの子は入試なの!」  あっ、と父が短く声を上げた。 「何が誠意よ! 聞いて呆れるわ! 誠意って言うならまず、金出しなさいよ! あの子が行くのは金がかかる私立よ! あの子のうちでの生活費も知らん顔しといて、学費も無視する気? 喜美子の入院費も美咲ちゃんの学費もうちに押し付けて逃げるつもりじゃないでしょうね!」  私はそろりとドアから一歩離れた。  心では、慎重に、足音を立てないように、ゆっくりこの場を離れる予定だったのに、身体の方が裏切った。  私の足は筋肉と神経が全てなくなってしまったように力も感覚もなく、ついでに後ろを確認することも失念していて、背中をシューズボックスに思い切りぶつけて派手な音を立ててしまった。  ボックスの上の花瓶が倒れ、転がり落ちて割れた。  床に散る水と花の赤い花弁が風呂場に倒れた母の血を思い起こさせ、眩暈がした。 「美咲ちゃん!」  勢い良く開いたドアを咄嗟に振り返り、青ざめた顔の伯母と目が合った。視線をずらすと同じ顔色でこちらを見ている父とも視線がぶつかった。  私はカバンを放り捨てると、玄関の外へ駆けだした。  どこへどれだけ走ろうと、現実からは逃れられないと分かってはいたけれど。

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