早春の向日葵
7 トラブル

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 食堂に行くと、ちょうど伯母が来たところだった。  私は屋上にいた事を何となく言いたくなくて、食堂でジュースを飲んだ後、売店に行っていたと言い訳した。 「遅くなって悪かったわね。先生とこれからの事も含めて相談していたから」  母はしばらく入院する事になったという。母のあの様子を見れば予想はついていたので、それほど動揺しなかった。  詳しい話は家で、と言われ、私は伯母と家に戻った。 「喜美子は今、とても疲れてるみたいなの」  家に戻り紅茶をいれてくれた伯母は、ため息をついて居間のソファーに沈み込んだ。  伯母が医師から説明された話によると、母はストレスに耐えきれなくなり、無意識下でこれ以上のストレスを抱え込まないよう排除しようとしているのだそうだ。  だから、夫婦の不仲を姉に知られて心配かけたくなかった母は、病院に迎えに来た伯母を「姉ではない」と否定し、上手くいかない家庭を思い出させる娘の私は無視したのだという。 「これからカウンセリングを受けて、気持ちに整理をつけさせて、現実にきちんと対応できるように治療していくんだけどね、しばらく面会は遠慮してくれって」  ストレスの場となっている家庭から一度斬り離して違う環境に置き、これからどうすればいいかゆっくり考えをまとめさせる治療で、思考の混乱を防ぐために、精神的にある程度落ち着くまでは家族にも会わない方が良いというのが医師の診断だった。  母が入院し、しばらく面会もできないという話に、私は心にどこかで安堵していた。母に会えないのは寂しく不安だったが、母が何一つ問題が解決しないままの家に戻ってきてまた発作的に自殺行動を起こしたらと思うと、病院にいてくれた方が安心していられた。  面会できるようになるのがいつになるのか見通しが立っていないため、伯母には自分の家へ引き上げてもらった。伯母にも家族がいて生活がある。これ以上迷惑をかける訳にはいかなかった。 「私が帰っても、本当に大丈夫なの?」 「大丈夫。……お父さんもいるから」  父への信用を完全に失くした伯母は何かを言いかけたが、飲み込んで代わりにため息をついた。前回を反省して、子供の前で父親を罵る事だけは避けてくれたようだ。  伯母は私の携帯に自分の携帯番号を登録し、何かあったら直ぐに連絡するようしつこいほど繰り返して、帰っていった。  母がいない家で、私は一人だった。  伯母が帰った翌日、父は家に戻ってきたが、戻ったのは午後十一時を過ぎた頃で、私は自分の部屋で勉強していて起きていたが出迎えはしなかった。母を追い詰めた父を許す気持ちにはなれなかったからだ。  朝は私が起きる前に父は仕事に出かけていた。洗濯機横の籠には父の洗濯物がまとめて入れてあったが、私はそれを無視して自分の物だけ洗濯した。  帰ってくるかどうか分からない父の分の夕食は用意しなかった。父の方も当てにしていないのか夕食時には戻らず、帰るのは私が自室にいる夜遅くになってからだった。  生活費に充てていた母の財布の金がなくなると、父の携帯へ「食費をください」と簡素なメールを入れた。すると、翌日の朝にはテーブルの上にいくらかの現金が置いてあった。  父の洗濯物は洗濯籠に出されなくなっていた。母が入院して以来、父と私の会話は全くなくなっていた。  父の存在は自分の部屋で音で聞くのみだった。  学校でも、私は一人だった。  母が自殺を計ったあの日喧嘩別れした友人達は、私に話しかけなくなっていた。私の方からも話しかけなかったので、他に親しかった者のいない私は、クラスで孤立していた。  私は自分だけの一人分の家事とはいえ、食事の支度や後片付け、洗濯や掃除やゴミ出しなどの雑用と受験勉強に疲れていて、友人との仲の回復にまで手を伸ばす気力がなかった。  彼女達が無言で帰ってしまった私に対してまだ怒っているらしいのは分かっていたが、私の方も一方的に言われた腹立たしさを抱えていて、それが仲直りをする努力の妨げとなっていた。彼女達の方から話しかけてきたらこちらも折れてもいい、くらいに考えていた。  が、随分甘えた考えだったと気付かされたのは、母が入院して一週間が過ぎた頃だった。  その日、夜もよく眠れず疲れ果てていた私は給食の後気分が悪くなり、トイレで食べた物全て吐いてしまった。  嘔吐した後の苦しさと気だるさに耐えながら個室の中で息を整えていると、数名の聞きなれた声が聞こえて来た。洗面台の前辺りで話し始めた集団は、昼食後身だしなみを整えに来たらしい。 「何か、ムカつかない? 美咲の態度」  言い捨てた声は、私を気分屋と糾弾した彼女だった。 「これ見よがしに翌日休んだと思ったら、次は無視だよ。私たちの方が悪いって言いたげじゃない?」  応じたのは、あの日一緒にいた子たちだった。 「友達のよしみで悪い所言ってあげたのに、全然反省してないよね、あれ」 「素直に謝るんだったらまた付き合ってあげてもいいかなって思ってたけど」  ないよね、と声が揃った。 「一人でも平気、みたいな顔しちゃって、ほんとムカつく」 「何様よ、って感じ」 「ホント、性格悪いよね」  私は大きく息を吸い込むと、音を立てて個室を出た。 「じゃあ、あんたたちはどれだけ性格が良いって言うのよ」  いきなり出て来た私に彼女達はひどく驚き、目を見開いて固まった。まさか本人がすぐ傍で聞いているとは思わなかったのだろう。 「本人のいない所で悪口言う方が最低じゃないの」  黙って引き下がれる性分ではない私は正論を振りかざし、彼女達に対峙した。 「わ、悪口じゃないわよ。本当の事じゃない」 「そうよ。本当の事言って何が悪いのよ」  彼女達は居直り、人数の優位に任せて反論してきた。幼稚な口喧嘩だったはずだが、当人たちは頭に血が上っていて、言い争いは自然にエスカレートして行った。 「あんたの顔、見るだけで腹立つ。学校に来ないでよ」 「そうよ、あんたなんているだけで迷惑なのよ」  口喧嘩は多勢に無勢だった。多人数からの集中攻撃を受けて、家庭のトラブルで疲弊していた私の精神はギリギリまで擦り減っていた。 「もう、あんたなんて死ねば?」  彼女の言葉は売り言葉に買い言葉で、十割丸々本気の発言ではなかっただろう。  それでも何割かの本心が混じっていただろう罵りに、私の中で何かが振り切れた。  私は彼女達を押し退け、洗面台の鏡を素手で叩き割った。切れた手から血が溢れたが構わず、割れた鏡の一番大きな破片を握った。 「私が死ねばあんたたちは満足なのね」  鏡の破片を自分の首に押し当てた私を見て、彼女達は悲鳴を上げた。 「あんたは私に学校に来るなって言った。あんたは私がいるだけで迷惑だって言った」  私はもう一方の手で、一人一人指さしながら言った。 「あんたは私に死ねばいいって言った。あんたたちが忘れても、そこで見ている人たちが忘れないから安心して」  トイレの入り口には、騒ぎを聞きつけたらしい生徒たちが集まっていた。彼らにも聞こえるように、私は声を張り上げた。 「あんたたちは自分が満足するためには平気で人に死ねって言う人間だって、みんなが覚えていてくれるからね」  顔を強張らせた彼女達に、顔も知らない父の愛人の影が重なって見えた。  自分の幸福のために平気で人を死に追いやる者に一生悪者の烙印を焼きつけるために、相手の良心に剥がれない罪を張り付けるために死ぬのだと考えると、何故か殉教者になった気分がした。破片を強く握りながら、自殺を計った母の気持ちが理解できたような気がした。  が、次の瞬間、大きな影が目の前に飛び込んできて、手加減のない力で破片を握った腕を掴まれた。 「何をやってるんだ!」  破片を叩き落とされ、抱きかかえられて初めてそれが男性教師だと分かった。誰かが私たちが喧嘩していると教師に言いつけたのだろう。  関係ない生徒は教室に戻れと怒鳴る教師の声や喧嘩相手の泣きわめく声が、何故か遠かった。  私は茫然としたまま、男性教師に抱きかかえられて保健室に連れて行かれた。

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