芽生えのころ
side.ボーイ  「雪どけ」

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「ほんで、どうなったん?」  よく艶のでた木製のカウンターに、スモークチーズとナッツのセット。それからワイングラスをもつ手がふたつ。  カウンターに肘を固定し、有本がグイと残りのワインを干した。爛々と好奇の光をともした視線が、かたわらの男の横顔に突き刺さる。  男はちらりと目線を向けたが、すぐに自分のグラスに視線を戻す。ゆるりとグラスの中身を揺らして、ほうと息をもらした。 「分かるかい、この深みのあるボルドー。芳醇な樽の香り。チョコレートのコクとピールのほろ苦い酸味。そして、」 「いいから、レッスン中のふたりの様子をおしえて、ゆうてるやん」  手中の一杯を褒め称える男を、バッサリと切り捨て、有本がギュッと眉間に力を入れる。男は、可哀想なものを見るように有本にその青い目を向けた。  無言のまま視線が交わることしばし。やがて男、英会話講師のジェイムズが、やれやれと首を振る。ボルドーに濡れた有本の唇が、にんまりと笑みの形をつくった。 『さて、テキストにある文法のおさらいはこの辺にして、今日はふたりに旅行に出かけてもらいましょう』  講師のジェイムズが手元のテキストをばさりと閉じ、よく響くテノールでそう宣言した。  英会話学校のブラッシュアップクラスでのことである。講師に対し、生徒はふたり。サユとマサトが会議テーブルの向こうに並んで座っている。 『このクラスは基本を学び終えたビジネスパーソンの受講も多い。テキストでは、商談シーンのロールプレイになっています。といっても、営業も買い付けもプレゼンテーションも、大学生のあなたたちに経験はありませんね?』  サユとマサトの視線が交わる。ふたりはこくりとうなづきあった。 『ふたりには旅行に出かけるプランを立ててもらいます』  ジェイムズが指折り数えていく。目的地、日程、フライト、宿泊、現地の情報収集、エトセトラ。ふたりのプランを発表するようにと議論の時間を与えた。 『では、私は席を外しましょう。ほんのちょっとの日本語なら大目にみますよ。では後ほど』 「Ah…… where should we start with? (どこから取りかかればいいかな)」  ジェイムズが席を外した教室では、サユが困り顔で眉を下げていた。頭を傾げた方向にウェーブをつけた髪がふわふわとゆれる。 「let me see …… O.K., if you don't mind (そうだね。……そうだ、もしよかったら)」 「もう、日本語でプランを立ちゃおう」  マサトは口元に人差し指を立て、涼しげな切れ長の目元をゆるめた。キラキラッ と目を輝かせるサユの表情が同意を示す。 (ああ、このひとは。ひとつ年上なのに、なんでこうも。無邪気というか、ゆるいというか)  マサトはつい、高校生の頃に付き合っていた彼女のことを思い、きゅっと心臓を縮ませた。  元カノも、ひとつ上の学年だった。バスケ部の主将ですらりと背が高く、キリッとした立ち居振る舞いがきれいなひとだった。マサトは少人数の格闘系のクラブに所属していて、体育会系クラブの連絡会で彼女と出会った。……そして恋に落ちた。  大好きだった。彼女もそんなマサトを受け入れ、振り向いてくれた。きっと結婚するのだと、そう思っていた。  一足先に東京の大学に進学した彼女とはしかし、半年ほどの遠距離恋愛の末、別れを迎える。 『遠くの親戚より近くの他人』  会えない後輩より半径一〇〇メートルの……そういうことだ。  別れを告げられてから、もう二年。夢をかなえたら、いや、パイロットになる夢の一歩を踏み出したら……試験に合格したら、もう一度会いに行く。マサトはそう決めていた。そのために必要なプログラムを、着々とこなしてきたのだ。 (未練がましくも)  とサユに笑顔を向けながらマサトは思う。  未練がましくとも、未だ彼女の清冽なまなざしが忘れられないのだ。指先の冷たさと、それに反して好きなものに真っ直ぐ向けられる熱い情熱。……それが自分に向くことはもうない。分かっているのに。 (サユさんの側なら、忘れられるだろうか。陽だまりのようにやわらかく笑う、このひとなら。いつまでもジクジクと存在を主張するこの痛みを消してくれるだろうか) 「おれは、国際線のパイロットを目指していて、次の夏に試験を受ける予定なんだけど……」  秘密を打ち明けるように、マサトが声を潜めれば、サユが大きな目を丸くして、好奇心たっぷりの顔を寄せてくる。  甘酸っぱい柑橘系の香りがマサトの鼻腔を刺激した。 「ここに通ってるのも、受験対策?」 「そういうこと。それでね、折角だからリアルに将来のシミュレーションになるようなプランにしようよ」  マサトは、スッと背筋を伸ばし、帽子のツバを持ち上げるようなジェスチャーをしてみせる。 「本日はA A A サンフランシスコ行き一〇五 便にご搭乗ありがとうございます。私は、機長の片倉です。お客さま、サユさんはビジネスですか?」  サユのふっくらとした唇がほころび、ふふっと笑みがこぼれた。どうやらマサトのアイディアを気に入ってくれたようだ。 「わたし、こどもの頃から『遠いところ』に行きたかったの」  旅行でも、ビジネスでも、いろんなところで、沢山のものと出会いたくて、とサユは話しだした。  ほおをうっすら上気させて、宝物がいっぱいにつまった箱を開けるように、ふんわりと幸せそうに。  テーブルについた肘に横顔をのせ、マサトは笑顔で続きをうながす。サユの柔らかな声が、指先で伝えるジェスチャーが、瞳にともる淡い恋情が、マサトを春の陽気で温めていく。やわらかく包まれる心地よさと、手を伸ばしたらふれあう距離感。 (いつまでもこうしていたい)  マサトは、鼓動が高まっていくのを自覚した。  かれた水路に雪どけ水が流れ込むように。固く圧縮された大地が、日差しの中でほどけていくように。  予感がじんわりと広がって、マサトのほおをゆるませる。  ……きみのことをもっと知りたい。  マサトのこころの奥深い場所で、春の山野草がひっそりと芽吹きの季節を迎えていた。 「芽生えの頃」  了 「こんなところかしら?」 「またきみは……言っておくが、私はそこまで詳細に目撃したわけじゃない」 「野暮言わないで。帰り際のふたりの様子をみれば……」  うふふん、と楽しげな様子にあえて水を差す気にもなれず、有本いわくの甘酸っぱい恋物語を肴に、バルの夜は更けていくのだった。

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