姥捨島挽歌
一〇三〇年/乳白

 乳白色の中で、彼は目覚めた。  その色は、朝陽を透した毛布の色だった。寄せ集まった起毛の皺が、彼の霞んだ視界を覆い、水面のような光の抑揚を作っていた。  彼はその空間に全身をうずめ、薄明かりの水面を空想に見立てる。  その微睡みの時は、彼の密かな安らぎだった。彼は眠気の残る頭のまま、昨晩に飲んだホットミルクのまろやかな白色を思った。 ——ここはミルクの中だ。 ——私は今、温かなミルクの中にいる。  彼の胃が動き始める。眠っていた体の器官が順々に目を覚まし、体温が上がっていく。毛布の中に暖気がこもりはじめる。  彼はその熱を愛おしみながら、赤子の飲む乳を思った。 ——乳の海。 ——いつか口にしていたはずの、私のもとたち。  大人の歳に近づいている彼は、赤子の頃を思おうとして、その輪郭を描けずにいる。ミルク色の空想は毛布の水面に霧散し、行き場のない熱を残して消え去った。  毛布の暖気は湿り気に変わりつつあった。身じろぎした彼の足に、部屋の冷えた空気が触れる。その肌寒さに、彼はどこか遠くの雪国を思った。 ——ここは雪の降る国だ。 ——このマキサ島じゃない。もっと北にある、雪が山ほど積もるような、どこかの国……。  新雪の色をした空想が始まる。  彼は膝で毛布を捲った。木綿のネグリジェを巻き込みながら、はだけた白いすねがシーツを撫でる。  それは彼の密かな安らぎの、もう一つであった。彼は眠気に囚われたままで、素肌を毛布に撫でつけることを好んでいた。  彼は寝返りを打った。毛布は彼の体の、肩から上だけを包んでいた。その隙間から現れた長く細い黒髪が、枕の隙間に流れ落ちる。 ——ここはどこか遠くの、凍えるほどに寒い国。 ——だけど私は、温もりに抱かれているんだ。  彼は脱いだ毛布を手繰り寄せると、腹を載せ、細い腕と腿でその肌理を味わった。  顔だけを毛布に埋めたまま、彼はしばらくそうしていた。己の呼気がむせかえるほどに充満し、乳白色の中に飽和していく。  強まる朝陽と共に、窓の外から喧噪が漏れ出す。  ぱたぱたと忙しく駆ける足音、笑い声混じりの挨拶と井戸端会議、サビを繰り返す流行歌。その全てが、人々の歓喜に満ちている。 ——秋祭り。  彼は窓を睨むために、その向こうにある歓喜を恨むために、毛布から顔を出し、起き上がった。  カーテンから漏れた鋭い陽光が、空中の埃に直線を描き、彼の淡い碧眼に差す。  乳白色の空想は、彼の手元で皺になって消えていた。

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