姥捨島挽歌
1030年、秋祭りの日 3

 無音の中、私達はあてもなく聖堂を歩く。ランタンの光が飽和した真白い床の上を、二つの長い影が滑っていく。足下に目をやると、踏みしめた乳白色の奥深くに、細かな繊維質の名残がきらめいていた。  聖堂の床は、癒着した臍帯網でできている。臍帯網の木々の根は、先へ行くほど床と同化していき、やがて平らな床となる。その質感は、蓮見先生が新芽と呼ぶ、若い臍帯網とは違っている。新芽が生き物だとすれば、この床は死んだ化石で、硬質な樹脂と変わらなかった。  それでも、この乳白色の床は、遙か昔の有機物としての息遣いを失ってはいないようだった。私が一歩踏み出す度に、床からは温度に計れない温もりが返される。その感触は、化石となった臍帯網に残された、ほんの僅かな柔らかさでもあった。 「能登ちゃんは、この場所が脳神経に似ていると言ったね」  私の隣で、蓮見先生が口を開いた。 「確かに、あなたの言うとおりなんだ。臍帯網には、ウォームの意識が通っている。ウォームはこの聖堂で胎児の姿を思い描き、身ごもる。胎児とともにあるその意思こそが、我々の神――祝福という存在なのだと、僕達人間は考えている」  蓮見先生は、普段よりもゆっくりと話していた。言葉の一つ一つが、少しの間違いも起こさないよう、丁寧に選ばれたものであることが伝わってくる。 「祝福のことを、このマキサ島のみんな、クス人のみんな、世界中の人々が信仰している。祝福のおかげで、僕達は健やかにウォームから生まれ、仲間と共に豊かな人生を送ることができている。……今言ったことは、一般的な教えでしょう。能登ちゃんも知っているね」 「うん」  短く返事をすると、蓮見先生はふいに黙り込んだ。聖堂は再び無音に包まれる。私達の足音は、床の中に吸い込まれたかのように響かない。 「能登ちゃん」  蓮見先生が再び口を開いた。いつもより低く弱々しい声色に、私は聞き覚えがあった。 「あなたは祝福を、信仰している?」  いつか尋ねられる時が来ると、分かっていた問いだった。  私に問いかける声色は、教育者としての叱責を少しも含んでいない。蓮見先生は私に対して、密かに詫びているかのようだった。 「私は……」  私達には、神様がいない。  口にできない言葉が、脳裏にあらわれていた。  立ち止まる。私達は、聖堂の出入り口に戻っていた。床と同じ組成の丸い壁には、船で見るような、角を丸めた扉が埋め込まれている。その扉の白色は、この乳色の空間が非日常であることを思い出させる、ありふれたペンキの色だった。  蓮見先生を見ると、彼は私の顔を見つめていた。視線が交わって間もなく、眼鏡の奥の瞳が伏せられる。 「能登ちゃん」  蓮見先生が憂いげに微笑み、一歩近寄って私の肩をさする。 「僕は今日、あなたにするべき話があった。だけど、少し……疲れてしまうかも知れない。だから、時間をかけて話そうと思う」  口にできなかった言葉が、頭の奥でくすぶり始める。  肩に触れる柔らかな体温が、煩わしく思えて仕方なくなる。私の手を取って、火傷がないか見てくれたことすら、嫌な思い出に成り代わろうとしている。 「今日はもう、帰りましょう。誕生祭は終わってるだろうから、大丈夫」  蓮見先生が扉を開ける。明るい廊下の光が、聖堂の中に差し込む。  私の胸は、飽きるほど見知った陰鬱さに満たされた。