姥捨島挽歌
1012年、神父の葬式 2

 僕は、歴史の授業が好きだ。  加辺カナベ先生が教える歴史の授業は、分かりやすくて面白いから、いつも教室が盛り上がっている。僕は、歴史の勉強が特別に得意なわけではなかったけれど、賑やかな教室で加辺先生の話を聞いて過ごすのを、いつも楽しみにしている。 「はい! みんな、これは何だろう?」  加辺先生が、ラミネートしたプリントを黒板に貼りつける。  カラーで印刷されたそれは、大昔の絵のようだった。二人の人間が大きな木の下に立ち、少し驚いたような横顔を見せて、向かい合っている。右側に描かれた人物はリンゴを片手に持ち、左側に描かれた人物に差し出している。その様子を、木の上から一匹の蛇が睨んでいる。  その絵に描かれた二人の人物を見て、僕は驚いた。彼らは裸で、おかしな体をしていたのだ。 「人間、なの?」 「なんか変なの!」 「裸んぼだー」  教室中に、同胞達のざわめきが広がる。くすくすと笑っている者もいる。驚いているのは、僕だけではなかった。  絵の中の二人は、胸元に二つのいぼのようなものがついていた。へそと相まって、胴体が大きな顔のようにも見える。臍の下には毛のようなものがついているが、植物の影に隠されるように描かれていて、よく見えない。 「じゃあみんな、この二人を比べてみて」  加辺先生が、よく通る声で僕達に呼びかける。絵に描かれた二人を見比べると、体型が大きく違っていた。  左側に描かれた人物は、背が高く筋肉もついていて、島の漁師や大工の大人達、テレビで見るスポーツ選手のようだ。不思議なのは髪型で、彼は短髪だったが、もみあげの髪だけが長く伸ばされ、それが口元にまで及んでいる。  右側に描かれた人物は、背が小さめで、少しぽっちゃりしていた。特に、左右の胸が特別に大きく膨らんでいて、病気か何かで腫れているようにも見える。彼は左側の人物と違って、とても髪が長かったが、口元に髪を持ってくるようなことはしていない。 「右は背が低くて、左は背が高い?」 「右は太っちょ、左はマッチョ!」 「あはは、でこぼこコンビだ!」  教室が笑いに包まれる。加辺先生が困り顔で、ぱんぱんと手を叩いた。 「はーい、はーい。みんな、大正解! この人達は人間で、裸んぼで、でこぼこコンビというわけだな」  加辺先生が、教卓から新しいプリントを取り出す。 「彼らは、我々とは違う人間なんだ」  黒板に貼り出されたのは、直立した二人の人間の図だった。古い絵に描かれた二人と同じで、右側には背の低くふくよかな人間が、左側には背の高く筋肉質の人間が、それぞれ裸で示されている。絵と違い、股間が露わになっているが、やはり毛のようなものがついていた。筋肉質な人間の股が変わった形で、内股に大きなこぶのようなものが垂れているのも分かった。 「彼らは大昔の人間で、ホモ・サピエンスという生き物だ。古代人、旧人類ってやつだな。聞いたことある人?」  加辺先生が片手を挙げてみせる。教室の半分、十人ほどが手を挙げた。  僕も挙手をして、それに加わる。古代人というのは、聞いたことがあった。教会と呼ばれるマキサ島の遺跡は、古代人が勉強や集会のために使っていたものだ。社会科で町役場の見学に行った時、職員のおじさん達から聞いたことがあった。 「ほいほーい、おれも聞いたことあるー!」  突然、素頓狂すっとんきょうな声が教室に響いた。  声の主は、廊下の窓から教室へと身を乗り出す、鶴木先生だった。  神父である鶴木先生は、ウォーム学の教師だ。しかし、変わり者の彼は、他の科目の授業に「遊びに来る」ことがしばしばあった。「遊びに来る」といっても、他の教師からすれば迷惑な「襲来」だ。特に、加辺先生は鶴木先生と同い年の同胞であるため、気まぐれに「襲来」されることが多かった。  突然の「襲来」によって、教室は再び笑いに包まれていた。加辺先生が呆れて肩を落とし、廊下から遠い席の同胞は、意地悪そうに笑ってひそひそと耳打ちしている。僕はこの混沌とした空間の端で、行き場のない苛立ちを覚えた。  鶴木先生は、その中の誰に構うでもなく、軽快な歩みで教室に入ってくる。爪先の尖った上等な革靴が、こんこんと弾んだ音を立てる。  僕は不運にも、出入り口に最も近い、後ろの端の席に座っていた。 「よう、スミ。ちょいと失礼」  ぼろぼろの黒いコートをばさりと翻し、クレヨンを全色転がしたような色のハンチング帽を脱いで、鶴木先生が僕の隣に腰掛ける。変わり者と呼ばれている彼は、いつもちぐはぐな格好で、その上、一年中その格好をしているのだった。 「おい、鶴木。暇だからって、人の授業に割り込むなよな」  加辺先生が溜息混じりに呟く。鶴木先生は、気の抜けた笑い声で返事をした。 「カナは遊びに来ても怒んないんだよ」  加辺先生が黒板に向き直り、教室のざわめきが収まり始めた時、鶴木先生が僕に耳打ちした。カナ、というのは、加辺先生のことらしい。鶴木先生は、マキサに住む同郷達に、やたらとあだ名をつけたがる。スミと呼ばれる僕も、その例外ではなかった。  僕は、鶴木先生に色々なことを抗議しようとして、すぐに面倒になった。彼に誰が何を言っても上手く言いくるめられて、終いには、園庭を駆ける保育院生のような笑顔で、何もかも解決させられてしまうのだ。 「スミは、我々の名前を知っているかい」  声を潜めるでもなく、鶴木先生が僕に尋ねた。耳にいつまでも残るような、はっきりとした口調。授業の邪魔になる、と思った時には、僕達は町外れの遺跡にいた。  つたの這った白い石の柱と、それに続く丸い天井が頭上を覆う。幾何学模様のステンドグラスが、曇り空から零れる光を赤と青に彩る。  これは夢なのだということが、今、再び思い知らされていた。僕はもう、歴史の授業を受ける初級生ではなかった。 「旧人類がホモ・サピエンスなら、我々は何だい?」  鶴木先生は僕に背中を向けて、ステンドグラスを見ていた。いからせた肩を包む黒いコートは、彼をカラスの姿にも似せている。 「ホモ・エンブリオHomo embryo。『胚生のヒト』でしょう」  僕は答える。鶴木先生は振り返らず、質問を続ける。 「ホモ・エンブリオの前は?」 「ベセリVecelli。『カプセルvesselの中で、珠心胚実生nucellar embryonyのように生まれるもの』だった」 「ベセリの前は?」 「ラボンLab-born。……『実験室生まれ』」  僕は声を詰まらせた。鶴木先生は質問をやめない。 「ラボンの前は?」  人形だ。  我々は人形なんだ。  それを口にすることが許されているのは、この島で、鶴木先生だけだった。 「スミ。我々は、我々が何であろうと、ウォームを守らなくちゃならない」  背中を見せたままで、鶴木先生が呟く。ハンチング帽の頭は、既にステンドグラスを見上げるのをやめている。 「だけどもう、おれは我々ではないらしい」  鶴木先生が振り返った。彼は僕に、にこにこと笑ってみせた。それが彼に残された、ほんの僅かな正気であることを察して、僕はこの夢の行方を悟る。  鶴木先生は、僕達が母と共にあるための、神父だった。