姥捨島挽歌
1030年、秋祭りの日 2

 僕達は、一株の臍帯網の前に立っていた。  この聖堂に林立する乳白色の樹木――六十七の臍帯網の束のうち、それは、先代の神父に《ナミ》と名付けられたものだった。  《ナミ》は他の株よりも繊細なつくりだった。大人一人ほどの幅しかない幹に対し、天井からは何本もの小枝が集まり、根本には藁のように細い根が浮き出している。  そしてその繊細さは、《ナミ》がこの古い聖堂で化石化を免れている、希少な部位であることの証拠だった。 「蓮見先生。これ、触ってもいい?」  僕の横で、能登ノトが尋ねた。黒く長い睫毛の隙から、薄青の瞳が僕を見ている。 「少し待って。能登ちゃんが触れるかどうか、確かめるから」  僕は《ナミ》の前で膝をつき、根のほころびに結わえ付けられた紙札を確認した。  漢字一字と小さな数字のメモが書き入れられた、数十枚の紙札。その中から、「原」の字が記された一枚の札を手に取り、慎重に根の一束を引き出す。  《ナミ》を形作る臍帯網は、化石化してしまった他の株と比べて、臍帯網同士の癒着がほとんど進行していない。枝から根までがツタの茎のように柔らかく、奥まった部位を引き出すことは容易いものの、絡まって千切れてしまうことがないよう、十分な注意が必要だった。 「ゲン……? いや、ハラかな」  背後で能登が低く呟く。いつの間にか彼は僕の後ろに屈み、おさげを垂らして札をのぞき込んでいた。 「先生、このたくさんの札の文字が、子供の名前の由来になるんだよね?」 「よく分かったね。確かにこれが、僕らの名前のもとになる。だけど……」  そこで僕は言いよどんだ。言葉だけでこの紙札の意味を正しく説明することは、難しい。 「見て、これが臍帯網の端っこ。神父はこれを、新芽と呼んでる」  僕は「原」の札がついた臍帯網の一束をつまみ、葉脈のような形に細かくほつれた先端――この樹木の新芽であるその部位を、手のひらに載せてみせた。  その瞬間、小さなしびれが手から腕を伝い、頭の奥に向かって走る。  僕の意識は、居眠りのように緩く途切れた。  あしのうらを  やさしいものが くすぐっている  あたりには なにもない  はしるのをやめ ねむりにつく  あたたかいのは  だいちに だかれているから 「細かい。パンジーの根っこみたいだ」  感嘆する能登の声で、ほんの一瞬の夢から現実に戻る。 「……能登ちゃん。これは安全そうだから、触っていいよ。優しくね」  僕は「原」の札が結われた根本を持ち、床に置いたランタンの前に新芽をかざしてみせた。  能登は、すぐには触らなかった。雨に濡れた蝶を助けるかのような慎重さで、恐る恐る右手を近づける。 「っ!」  新芽の末端に能登の指が接した瞬間、彼は息をのみ、肩をびくりと跳ね上がらせた。僕は慌てて臍帯網の束を引き離す。 「せ、静電気?」  声をひっくり返らせながら、能登が尋ねる。 「軽い感電のようなもの、かな。小さい子は特に伝わりやすいから、触らせられない。……能登ちゃんも、本来の正式な流れなら、成人して神父になってから触るものだったんだけどね」  僕は苦笑いをしてみせる。しかし、能登は緊張した顔を崩さない。 「ごめんね、先に説明しておけばよかった。もう十七歳だし、体への影響はほとんど無いはずだけど」 「……あ、いや。大丈夫」  能登は、妙にこわばった表情のままだった。その顔を見て、僕の頭に心配事がよぎる。 「手、見せて」  能登が右手を差し出す。その手を両手で包み、指先から手首までを見る。白くなめらかな皮膚に、傷や腫れは少しも見あたらない。僕は小さく安堵の息をついた。 「稀に火傷を起こす人がいるらしいのだけど、大丈夫そうだね。痛くなかった?」 「大丈夫だった。でも、少しびっくりした」  そこでやっと、能登の表情がほころぶ。僕はその顔に安堵し、彼に尋ねるべきことを切り出した。 「怪我が無くて良かった。……ところで、これに触った時、何か見えなかった? 短い幻みたいなものが」 「幻……どうだろう。頭の中が光ったような気はするけど、一瞬のことだったから……」  能登は首を振った。僕は若干の罪悪感を覚えながら、再び「原」の臍帯網を手に取る。 「ごめん。もう一度触ってみてくれるかな、今度は長めに」 「……分かった」  能登は緊張した様子で唇をかみしめると、新芽の先をつまんだ。  能登の表情が一瞬だけ険しくなり、それからだんだんと緩んでいく。薄青の瞳がまどろみ、指先に焦点を合わせなくなる。  僕はその様子を注意深く観察しながら、十秒の時を数え、能登の指先から静かに新芽を引き抜いた。 「……あれ、今……蓮見先生?」  意識の戻った能登が辺りを見回し、最後に僕の顔を見る。僕は「原」の臍帯網を元の位置に納めた。まだぼんやりとしている彼の肩をさすると、はっとした様子で背筋を伸ばし、ばちばちと強くまばたきをした。 「私、寝てた?」 「一瞬だけ、ね。さっき、白昼夢みたいなものを見たでしょう。どんな夢だった?」 「……ここじゃない場所、もっと開けたところにいた」  《ナミ》の幹をぼんやりと見つめながら、能登が答えを続ける。 「広々とした場所だった。なんというか……原っぱのような」  そこで能登は、あっと声を上げた。 「先生、この札の『原』って……」 「そう。さっき、能登ちゃんが見たものだよ」  僕の言葉に、能登は返事をしなかった。  僕は《ナミ》を見つめた。今、彼の表情を伺うことは、古い日記を読み返すような、そんなもどかしさがあった。  短い沈黙を経て、僕は答えの続きを話す。 「……僕も、僕の先生も、ずっと昔の神父達も、その札のついた新芽には同じものを見ている。神父が臍帯網に触れて見たものが、相応しい文字に置き換えられて、この札に記されているんだ」  僕達の前にある《ナミ》には、何十枚もの札が結われていた。「原」の札、「山」の札、「黒」の札、「末」の札、「沢」の札――勉強熱心な能登の言うとおり、それらの文字は全て、この島に生まれる子供の名前のかけらであった。そして、その臍帯網が孕んでいる心象風景の象徴でもあった。  しかし僕は、この札の本当の意味を、彼にまだ教えていない。 「能登ちゃん。今日という日は、あなたにとって大切な日だ」  僕の視線は風に吹かれたように揺らぎ、《ナミ》から能登の顔へと移っていた。 「僕はこれから、我々の神様について話す」  能登は僕の目を見ていた。その面持ちは、僕が恐れていたものではなかった。  薄青の瞳は、静かな安らぎに満ちていた。