姥捨島挽歌
1012年、神父の葬式 5

 《ユキ》は破壊されていた。  表面を覆っていた柔らかい臍帯網は、そのほとんどが乱雑に切り落とされていた。僕に気絶するほどの情報を読ませた新芽の表皮は、跡形も無くなっている。今、《ユキ》の表皮となっているのは、化石化した古い臍帯網の層だった。  《ユキ》の周りには、臍帯網の切れ端が散っていた。剪定された糸杉の下に積もった、細切れの枯れ葉のように、透明度を失った新芽が散乱している。  いくつかの札も、あの時の巻き添えとなって刻まれたのだろう。臍帯網の散乱に紙片が混ざり、漢字や数字の端くれが顔を覗かせている。  僕は深く、ため息をついた。  臍帯網の化石化は自然現象であったが、僕達のウォームは、原因不明の激しい化石化と成長の鈍化を起こしていた。ここ一世紀の間、マキサ島の出生数は著しく下がり続けている。それを、歴代の神父達は食い止められずにいた。  僕は聖堂を点検する仕事を習得しながら、鶴木先生とこの現象を食い止めなければならなかった。  しかし彼は、僕達には貴重な「生きている」株である《ユキ》を、殺した。  あの鋏によって、何人の胎児が生まれないことになったのだろう。  僕は《ユキ》の前に跪いた。乾いた臍帯網の切れ端が、床の上で緩やかに舞う。 「……鶴木先生」  《ユキ》に語りかける。  僕は、《ユキ》のことを、鶴木先生の墓のように感じていた。この感情が、神父として許されるものなのか、そうでないのか、判断しようとは思わない。僕には鶴木先生のことを、加辺先生のように悲しむことも、所長達のように裁くこともできない。  《ユキ》の中に、鶴木先生の由来となった臍帯網があることを、僕は知っていた。  「鶴」の札を下げているのは、化石化しつつある臍帯網の一束だった。葉脈のような繊維が複雑に絡み合うそれは、札を結わえる紐ごと《ユキ》の古い層に取り込まれつつある。新芽は生えていない。 「あんなことをして、痛くなかったの」  僕は「鶴」の臍帯網を撫でる。新芽でない部位から、臍帯網の中身を読むのは難しい。流木のように固くなり、老化した繊維の肌は、僕に何も語りかけようとしない。  「鶴」の札に指が当たり、くしゃりと乾いた音が鳴る。言いようのない寂しさに手を離そうとした時、指先を鈍い痺れが刺した。  その電撃から少しの間もなく、淡い白昼夢が脳を支配する。  とんでゆく  とおくにとんでゆく  こごえるときがきた  わたしも あなたも  まぶしい しろいろのなか  現実の視界に意識を戻すと、僕の指先は、臍帯網の傷に触れていた。幾つもの細かな切り傷が、「鶴」の札に隠されるように刻まれている。傷跡は、古びて節のように癒着したものから、あの時に切られたと思われる新しいものまで、様々だった。僕はその傷口から、新芽と同じ電撃を感じたらしかった。 「……どうして?」  その傷跡から分かることは、鶴木先生が、自分の臍帯網を切っていたということだった。  僕の知らない、先代の神父がやったことだとすれば、鶴木先生は健康に生まれていないはずであり、傷は跡形もなく癒着しきっているだろう。それに、傷は最近まで頻繁に刻まれ続けていたように見える。  鶴木先生の言葉が蘇る。 ――いいかい、スミ。これは神父の基本だけどね、自分の名前と同じ字のある臍帯網は、滅多なことで触っちゃだめなんだ。 ――自分の名前を読み解くということは、自分の体をばらばらにすることだ。 ――神父でなくとも、自分の名前の由来について考えすぎることは危険なんだ。おれがスミやカナをあだ名で呼ぶのも、念のため、ってわけなのさ。  僕が成人して神父になり、初めて聖堂に入った時、鶴木先生は確かにそう教えてくれた。  自分の臍帯網を読んではならない。もし解読すれば、自我を形作る過大な情報が脳に流れ込み、正気を保てなくなる――その禁忌は、世界中の神父の常識であった。僕もそれに倣って、自分の臍帯網を含む《ハナ》の点検は手袋をつけて行い、解読も最小限にしている。  僕の心の内に、ひとつの恐ろしい解が現れる。  鶴木先生は禁忌を冒し、自分の臍帯網を切りつけて、その傷口から自我を読み解いていた?  鶴木先生の静かな瞳、鋏、自殺。あれらの狂気を、僕はこの禁忌のせいにしようと思った。しかし、彼が自傷的な方法で禁忌を冒していたこと自体が、既に狂気の片鱗であった。  叫び出したいような衝動を覚えた時、突然、脳が温い眠気に襲われた。震える視界と瞼の重さは、臍帯網を読みすぎた時の疲労に似ている。 ――スミ。 ――おれ達は、自分の名前を解くことができる。  頭の中で、鶴木先生が耳慣れない口調で語っていた。彼らしくない、低く平坦な声。いつ、どこで聞いた言葉なのか、思い出せない。 ――急がないのなら、自分の臍帯網に触れなくてもいい。おれみたいに、犯罪者にならなくてもいい。 ――おれ達の体は、魂は、少しずつ、ばらばらに解かれていく。例えば草木を育てるとき。例えば誰かを愛するとき。 ――例えば、眠り、夢を見るとき。  いつか聞いた言葉。僕が眠っている時に聞いた言葉、彼が死を前にして遺した言葉だ。  《ユキ》を抱いて気絶した僕に、鶴木先生は言伝ことづてをした。 ――スミ。もし君が、君であることに耐えられなくなったときは。 ――己の名を、解きなさい。 「蓮見ハスミ」  僕の名を呼ぶ声がした。高い空を旅する鳥のような、孤独で朗らかな声だと思った。 「蓮見」  僕の名を呼ぶ声がした。純白の雪景色のような、寂しくて美しい声だと思った。  僕は《ハナ》の前にいた。そこには僕を生んだ臍帯網があった。その札に記された花の姿を、僕は見たことがあっただろうか。  僕の名前に、手を伸ばす。  僕は僕であることに、耐えられずにいるんだ。 「……蓮見先生」  声がした。能登ノトが、僕を呼んでいた。