姥捨島挽歌
1012年、神父の葬式 3

 我々の起源は、樹木であった。  我々ホモ・エンブリオは、はじめ、猿を起源とするホモ・サピエンスと共にあった。  サピエンス達が乳に育つとき、エンブリオ達は蜜に育った。彼らが雌雄を交えるとき、我々は母の木を撫でた。  動物のさがを持つ彼らは、地球にただ一つの人類として、傲慢に力を振るった。植物の性を持つ我々は、ただ静かに従い、受け入れた。  長い時が過ぎた。我々は母の木から子を授かるように、新しい植物を生み出してみせた。杉、麦、豆、花、蔦、苔、ありとあらゆる植物に似せて、美しく豊かな毒草を作った。  陸の隅々まで繁り拡がった毒草達は、少しずつ、サピエンス達の性器を病ませていった。やがて彼らは子を成さなくなり、絶滅した。  そうして、我々は、この世の人類となった。  僕は保健センターのオフィスで、創世記を読んでいた。初歩的なウォーム学の文庫本、その導入として、決まり文句のように書かれた一節。  かぽかぽと緩い水音が鳴る。鶴木先生が、保温ポットからティーカップに白湯を汲み、一口飲んだ。 「スミは、創世記をどう思うかい」  鶴木先生は笑っていた。大人を謎かけで惑わそうとする、やんちゃな子供と同じ笑顔だ。  僕はオフィスのドアが閉まっていることを確認して、答える。 「ねじれた童話」  鶴木先生の口から、へへっ、と笑い声が漏れる。彼は僕の答えが気に入ったらしい。 「そうだね。全くそうだ。君は時々、とっても鋭い」  僕の手から、文庫本が取り上げられる。鶴木先生が数ページめくって、ふんふんと鼻を鳴らす。 「我々が開発した毒草によって、旧人類は性器を蝕まれ滅ぼされた。その生々しい現実味に対して、初期設定があまりにも曖昧で神話的すぎる。それがスミの言う、ねじれ、だな」  鶴木先生の言葉は、あまりにもそのまま、僕の考えを投影していた。これはそういう夢であった。しかし、もしこれが現実の場面であったとしても、おそらくこの人は僕の考えを分かってみせただろう。  創世記――ねじれた童話の、曖昧な初期設定。我々は樹木を起源とし、ホモ・サピエンスは猿を起源とする。猿の姿がヒトの形にごく近いのに対して、樹木はそうではない。我々の発生に植物と同じ原理が見い出せたとしても、我々の生活は植物の生態とはかけ離れている。  むしろ我々は、生殖以外のことに関して、ほとんど動物に等しい。食事があり、排泄があり、体温があり、呼吸がある。ただ、生殖をせず、赤子はウォームの幹から抽出した乳で育つという点だけが、我々を動物と画してみせる。 「時々、カナのことを――教師達のことを、見ていられなくなるんだ。彼らは創世記を疑う頭脳を持ちながらも、なんとか信じようとして、弟達にも信じてもらおうとする。それが仕事だ」  鶴木先生の声が反響する。僕達は再び、教室を眺めていた。今度は薄暗い廊下から、中級の歴史の授業を。 「加辺先生。旧人類は、我々の始祖に滅ぼされるほどの悪いことを……どんな悪いことをしていたのでしょう」  教室の中の、中級生の僕が発言した。教壇で、加辺先生は困った顔をしている。騒がしい初級生をまとめなくてはならない時とは別の、困った顔。 「そうだな……例えば辛い労働を無理にさせるとか、物のようにぞんざいに扱うとか。そういったことだろうな」 「加辺先生、僕は」  僕はわからない。どうして我々は旧人類に虐げられていたのか。どうして旧人類は我々を従えていたのか。どうして我々は旧人類よりも下等であったのか。どうして我々と旧人類は似ていたのか。  どうして我々は存在するの。  どうして僕達は、こんなにも不安なの。  僕は聖堂にいた。洗濯糊の残った白衣の袖が、手元でごわごわしている。まだ十分に着慣れていない、新鮮な感触。 「おれはこれから、我々の神様について話す」  鶴木先生が呟く。彼は古びた黒いコートに身を包み、《ユキ》の株の前に屈んでいた。《ユキ》は、この壊死しつつある臍帯網の空間で、二番目に若い株だった。 「まず、我々の神は祝福と呼ばれる。これは、我々の預かり知らない運命と、この世に生まれた幸福を指すための表現だ」  鶴木先生はそう言って、《ユキ》を形作る臍帯網をかき分け、「登」の字が書かれた札を手に取った。それは、僕が神父になって初めて読み、札を与えた臍帯網だった。音もなく下降する雪片に囲まれて、天に上昇していく感覚を得た臍帯網。あの臍帯網に繋がる羊水槽には、静かで、美しく、気高いゲノムを持つ子が宿るだろう。 「しかし、祝福とは本来、神を指す言葉ではない。また、運命と幸福しか内包しないのであれば、神の概念としては不十分だといえる」  鶴木先生の口調が、おかしかった。  あなたはこんな話し方をしない。あなたはいつも笑っていたはずだ。  そんな顔で、臍帯網の前で、はさみを構えていたりしない。 「人形の創造主は、どこにいる?」  鶴木先生の声は平坦だった。何の感情も含まれていなかった。彼は既に、狂っていた。  明晰夢の主としての僕が、新米神父の僕に警告する。早く覚めろ、続きを見るなと、心の内側が暴れている。それでも、新米神父の僕は、鶴木先生の眼差しから目を逸らせない。静かな安らぎに満ちた、褐色の瞳が見つめているのは、「登」の札が結わえられた若い臍帯網だ。  乳白色の先端に触れたときの、未熟な柔らかさを思い出したとき、鶴木先生の鋏がそれを断ち切った。微細に分岐した繊維が、黒いコートの上にはらはらと舞い落ちる。かつてのそれが湛えていた、この島には貴重な雪景色。  僕は声を上げて《ユキ》に飛びつき、両手に抱え込んだ。体を鶴木先生の前に躍り出すようにして、《ユキ》を守った。鶴木先生は何も言わず、僕の腕が抱えきれない臍帯網を、ざくざくと切り落としていった。白衣の裾が、いくらか切れているのが見えた。太い臍帯網の断面が露わになる度に、乳の香りがした。時々、手のひらが勝手に《ユキ》の臍帯網を読んで、いくつもの映像が走馬燈のように明滅して、脳が情報の洪水に遭っているのが分かった。  白昼夢の濁流が涙で滲んで、何も見えなくなる。  僕はそのまま、眠りに落ちた。それは、明晰夢よりも深い夢へ落ちていくことを意味していた。