例年より早く咲き乱れた桜は、花見を楽しみに週末を待つ人々の期待を裏切るかのように、昨夜地面を叩きつけるように降り注いだ春の雨で散った。水たまりに浮かぶ花びらが雑踏の中、踏みつけられるのを見て、美しくも儚いだとか、そんな情緒的な趣を味わうでもなく心の中はただただ虚しい。そればかりか、昨夜の天気とは打って変わり澄み切ったこの空を、意地悪く、そして恨めしくさえ思った。 四月は始まりの季節だと言うけれど、私の気持ちは間違いなく終わりに向かっている。就活に失敗し、上の空で続けていたバーガーショップのバイトもクビ。真面目に単位だけは取得していたので大学を予定通り四年で卒業できてしまった今、行く当てなどない。 何にでもなれるような気もするし、何にもなれない気もする。矛盾する二つの思いは、昨年一年間、私の平べったい胸の中で、静かに同居していた。根拠はないが前向きで際限のない希望と、自分をどこにも受け入れてもらえなかったときに感じる底知れぬ絶望。 そして繰り返し訪れる、小さな喜怒哀楽の波――もう疲れてしまった。 もう何時間、こうしてぼうっとしているのだろう。 溜息をつき、いつもエントリーシートを書いていた日比谷にあるビルの一階で一杯四百円のカフェモカをテイクアウトする。一応、衣服、雑貨、カフェやレストランが入る商業施設だけれど、テナントに入っているショップがどうにも古い趣味で、人気のないビルだ。屋上を開放しているので、気分転換には良いし、なんといっても空いている。この、早送りしたみたいに人が歩く街の中で一息つくには、手頃な隠れ家みたいな場所だ。 カフェモカを頼んだのにカウンターで出てきたのはアイスカフェラテだった。 さほど混んでもいないのに、わざとらしく忙しそうに手を動かす店員に、声をかけたが届いた様子はない。あのカフェモカの甘ったるい感じを欲していたのに、早くも氷が溶け始めて汗をかき、甘さとは対極にいそうなエスプレッソ強めのカフェラテを握りしめて、そのまま仕方なく屋上へと向かう。 古いエレベーターがやけに大げさに揺れ、カフェラテがこぼれそうになるので、透明の蓋を抑える私は、自分の子ではない子をあやすような気分になる。 がらんとした屋上。街中に人が溢れているのが嘘みたいにここには誰もいない。使わないものばかりを詰め込んだ、やけに重たいバッグを地面に置いたまま、力を込めて足を蹴り上げ柵を跨ぐ。再開発されてどんどん新しく建て替えられていく周りのビルと比較しても、ここだけ時代から取り残されたみたいに整備されていない。続く外側の床面はほんのちょっとで、足場から下を覗いてみる。夕刻の空にビル明かりがまばらに光る。道行く人たちは誰も見上げようとはしない。 何もかもが便利に手に入るはずの東京のど真ん中で、私は何も手に入れることができず空っぽのまま、一歩踏み出せばこの世界から容易に脱落することのできる際に今立っている。 ふと、死ぬのも悪くないと思った。 もしこのまま足を滑らせてしまったら――そう考えても不思議と怖くはない。そういう運命を神様が決めていたのだと、納得できるかもしれない。 落ちてしまうんなら、それはそれで――履き潰した黒のパンプスの爪先が数センチ前に出て、ズッと音を立てる。私は、体が少しだけ前に傾くのを感じた。 「タカメ……?」 懐かしいその響きに思わず足がすくんだ。そんな風に呼ぶのは、小学校の同級生だけだ。 高柳芽美、略してタカメ。 右斜め後ろを振り向くと、しゃがんだまま私のバッグに手を伸ばし、勝手に財布の中から免許証を取り出した男がこちらを見ている。うんと身長は伸びているけれど、その切れ長の目とくりくりした髪の毛。笑ったときに見える八重歯。すぐにわかってしまった。 それは、小学校の同級生、ナルセトモロウだった。五年に上がったタイミングで引っ越してきたナルセは、妙にお調子者で、胡散臭いやつ。タカヤナギとナルセ。名前順で前後だった。 「ちょっと!」 とにかく荷物を勝手に取り出すなと、慌てて柵を乗り越え内側へ戻ろうと踏み出すが、勢いよく上げた右足が柵にひっかかる。逃さないよう、横目でナルセの方を見ながらも必死にあがき、ようやく柵の内側に両足をつくと一直線にナルセの元へ駆ける。 ナルセはひょいっと身軽にバッグから離れると、ポケットに手を突っ込みながら、「何してんの、こんなところで」と、ニヤッと笑った。 「何って……夜景が綺麗そうだから、見に来ただけだよ」 「はぁ? まだ六時だけど。それにどこが綺麗なわけ? 遅くなるまで人働かせてる、ただの残酷な光じゃん」 そっちこそ、こんなとこで何してんのよと思いながら、バッグの中に荷物をせっせと押し込む。 「まずは形から」と見た目が格好良いという理由だけで買った十一インチの、エントリーシートを書きまくったノートパソコンと、もう不要な会社案内のパンフレット類が詰まったバッグ。滑りの悪いチャックが鈍い音を立てて引っ張られる。キャパシティ以上の重量に耐えかね、四隅は剥がれかかってボロボロ。できる以上のことを詰め込んで壊れそうなそれは、まるで今の自分自身が投影されているようで痛い。私にとってこのバッグは今、最も目を背けたい存在だ。整理するのも億劫、心機一転、新しいのに替える余裕もない。 「お前、目ぇ死んでる。昔飼ってた金魚が死ぬ前そんな目してた」 冗談めかしてナルセが言う。昔からそうだった。とことん人をからかうのだが、テンポが軽快であまりに悪気がなさそうにするので、その瞬間はとてつもなく怒りが込み上げてくるのだが憎むに憎めない。 「ちょっとは垢抜けたか」 「ほっといてよ」 失礼なやつだ。 「お前、暇ならちょっと付き合って」 「暇じゃないし」 「金曜の夜に、こんなとこで一人でカフェラテ飲んでるやつ、暇じゃん」 「なんで昔っからそう、突っかかる言い方……」 「ああ、あれ。お前が小六のとき好きだった林の最新情報があるんだけど、興味ある?」 「いつの話よ」 懐かしすぎる名前に思わず吹き出してしまう。 「隣町の中学行ったじゃん? 今もイケメン」 暇人扱いされたのはムカついた。でも、なんだかすっかり疲弊していた私は判断力が鈍っていたのかもしれない。もはや顔もほとんど思い出せない、林というかつて好きだった男の子の情報に吊られるように、「おっしゃ行こうぜ」と言う、別に会いたくもなかった同級生の背中にトボトボついていっていた。 十年ぶりに再会したナルセと飲みに行くなんて、思いがけないこともあるものだ。
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