巽くん わからないことがあって、あの海に来ています。あの海で、君にもらった手紙を読み返しています。君はほんとうに手紙がうまくなったね。文字も、内容も。最初はいきなり「草々」とか書いちゃってたのにね! 覚えてるかな。 さて、ここで質問です。いま私の目のまえには、なにがあるでしょうか。 まえの手紙で巽くんが「あれが島ではなかった。それは僕たちのあいだに嘘があった証拠だ」と教えてくれたとき、私にもそれが分かっていたので、ショックではなかった。なのに、返事が書けなかった。「そうだね」のたった一言すらも。 もうこれ以上嘘をかさねることはできないな、そう感じたので、わたしたちの思い出に背中を押してもらい、正直にお伝えします。 あの震災の日以来、わたしはもう、脚本を書いていません。 騙された。そう怒るでしょうか。君を惹きつけたあの日の舞台ですらもわたしのものではなかった。裏切られたと罵るでしょうか。 ちがうよね。だってわたしたちがこのようにして手紙を交わしてきたことですら、いたずらな創作、「嘘」みたいなものだったのだから。 どうして君が脚本を書けないのか、わたしには分かります。たぶん世界中で、わたしだけが分かる。わたしが君に抱いている気持ちは、君もきっとそうであるように、そしてあの「島」のように、たしかなかたちをしていません。引き満ちた波があの「島」を叩いたように、手紙を交わしたわたしたちは、おなじ不確かさ、「書けない理由」を共有している。 あの脚本のなかで、たったひとつだけ、わたしの書いた言葉があります。 「この負のループを終わらせないと」 あのときはそれで正しいと思った。でもいまは、わからないでいる。渋沢さんと結婚するべきかどうかも、君との約束を果たすべきかどうかも。 でも君の手紙を読み返していると、答えが見つかる気がする。とりわけ始まりのころの、へたくそな「ナミ」の筆跡がすきでした。 令和三年 二月三日 金澤奈海
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