100回継ぐこと
[037:松戸理子]

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昔を思い出して、つい感傷的になりました。そっと心にしまっておいてください。ついでにもうひとつ、秘密を教えます。 鎌倉へ越してきたのには、就職以外に理由があります。あれは、求職活動に疲れてふらふらと七里ガ浜の海へ来たときでした。ちょうど藤沢で面接を受けた帰りでした。 砂浜に座って、夕暮れの江ノ島を見ていたんです。やがて太陽が地面に潜り込み、真っ暗な空が広がっても、僕は座ったままでした。見上げると満点の星が満月の光に邪魔されて、つまらない夜空になっていました。 そのうち、月に引っ張られた冷たい海水が、パシャパシャとお尻を濡らすようになりました。靴も靴下も鞄も、徐々に塩水を吸って重くなり、腰まで波が来るようになりました。 でもそのときの僕は、立つ気になれなかったんです。僕は独りで、世間の誰も僕を求めていない。僕がこのまま消えても誰も気にしない。このまま海に包まれても良いと、そのときは思っていました。 これからの人生を考えることが辛すぎて、自然と涙がこぼれてきて、声を上げて泣きじゃくりました。僕の嗚咽は、波の音にかき消されていると思っていました。 ふいに肩を叩かれて、顔を上げると、そこには見知らぬ白髪の女性がいました。女性はわざわざ足を濡らしてそばまで来て、そして軽く僕の腕を引き上げてくれたんです。僕の身体は急に軽くなって、自然に立つことができました。 女性は無言で手にハンカチを握らせると、海岸前に駐車していた車に乗り、どこかへ行ってしまいました。僕は急に我に返り、怖くなって、慌ててタクシーで帰りました。その日はずっとドキドキして、次の日も面接があったのに全然眠れませんでした。 実は今、あのときの女性を探しています。鎌倉市内を歩いていれば、そのうち偶然会える気がして。お礼が言いたい。あのときのハンカチを返したい。もう僕は大丈夫だって、伝えたい。 この出来事は誰にも言ったことがありません。渋沢さんにも、言わないでくださいね。僕だけ秘密を打ち明けるのは公平ではないので、奈海さんの内緒話も教えてください。 平成二十八年 六月六日 巽壮太

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