十月の太平洋に面した海は、海面の色が沈んで見えた。 しかし、広大な海原はどんな色をしようとも美しさと雄大さで心を掴む。ここからは少し離れた沖合の小島は有名な観光スポットになっていて、さまざまな商業施設がある。浜辺を挟んで海岸沿いには鉄道と車道が地形に沿って走っている。 車で走行しながら海が見えた瞬間から、幸則は興奮した声をあげてはしゃいだ。助手席の有も海に見惚れていた。 駐車場に車を止めて海に降りる。夏に来れたら、大賑わいだったろうビーチも、人はほんの数人程度だった。皆んな海に入るようなこともなく、波打ち際よりずっと後ろで海を眺めていた。 幸則は一番に浜辺に降り立つ。そして、外の世界を知らなかった神さまの子どもは、浜辺に駆け出した。引き潮を追いかけると、満ちてきた潮から逃げて浜辺に戻ってくる。それを飽きることもせずに何度もやっていた。 結局のところ、有を外に出したのは幸則だった。 悔しさもあったが、こうなったのが一番良かったのかも知れない。深地は雲の切れ間から覗く、弱くも眩しい太陽の日差しを手で避けながら思った。 有は深地と普通に接してくれてはいるが、内心で何を思っているのかは分からない。深地が奪ってしまったものは大きいと自覚していた。神さまになりたかったわけでないが、神さまには程遠い行いを好きな人にしてしまった。幸則の願いを叶えることで間接的にでも罪滅ぼしができればいいという浅はかな気持ちもあった。なんでもいいから、彼女に何かしてあげたかったのだ。深地は未だ、自分の傲慢さに折り合いを付けきれていなかった。 「有さんも。行きましょう」 「うん」 「どうですか、初めての海」 「そうだなぁ、怖いかな」 困ったように笑う有は、躊躇いがちに砂浜を降りた。深地は眉根を下げて聞く。 「外はやっぱり、怖いですか」 「あ、そうじゃなくて、いや、そうなんだけど。怖いっていうのは、広くて深そうで、入ったら戻って来れなそうで、怖いってこと。私実は泳げなくて」 意外な反応に深地は笑ってしまった。どんな些細なことでも彼女を知るのは楽しいと思った。これからは好きなものだけじゃなくて苦手なものや嫌いなものだって知りたくて、色んな有が見たいと思った。 「有さんって他には苦手なものってありますか」 「うーん、たくさんあるよ。こう漠然としてるから、これってものが考えずらいけど」 「じゃあ、苦手な……花は?」 「ふふ、花屋にそれ聞く?」 有はツボにハマったのかしばらく笑ってから言った。 「お客さんには口が裂けても言えないけど、薔薇苦手なんだよね。よく触る花だからさ、慣れてはいるんだけど、棘がね。一度刺さって腫れがひどくなっちゃったことがあって」 「へ、へぇ」 深地は冷や汗をかく。夢を修正しなければいけないようだ。手に百本の薔薇を持っているわけでもないのに、無意識に手を後ろにしてしまった。 そしてそれ以降、会話が止まってしまった。二人で海と幸則を眺める。 深地にはそれが意外で、とても怖かった。 有はメロマヨさまの話をしなかったからだ。こういう時、強引に被せてでも、メロマヨさまの教義と絡めて話すのに。 自分で破壊しておきながら、深地はそれを少し寂しく思った。 「有! 深地!」 幸則が呼んでいる。二人は波打ち際へ進んだ。幸則がはしゃぐ横で有が笑って、波と砂浜の間をゆらつく足取りで歩いている。 その有の姿が、前にも増して存在が希薄になっているように見えて、深地は不安になった。近くに寄ると、灰色にも緑っぽくも見える、秋の冷たい海。その淵を歩いている彼女の、投げ出されたように身体の横にある手を取りたいと思った。 しばらく波と遊んだ後、海岸に大きな流木があるのを見つけて、三人はその周りに集まった。 「こういうのって、どういう経緯でここまできたのか考えるの面白いよね」 有が言ったので深地は思ったことを言ってみる。 「材木会社の輸送船が転覆したのかも」それに続いて「鯨の骨なのかもしれない」「山で倒れたのがそのまま流れてきたのかも。きっとアメリカとかからきたんだよ」と、好き勝手に言い合った。 「もうお昼だね」 腕時計を見て、有が時間を気にして言った。いつもなら、彼女はお昼の後に、お祈りの儀式をする時間だった。彼女は今日どうするつもりでいたのだろうかと考えた。そして、思いつく。 「そうだ、二人ともここで待っててください」 深地は不思議そうな二人を残して浜辺から出て行った。 深地はビニール袋を引っ提げて流木のところに戻った。 「中身、何?」 幸則がしげしげとビニール袋をひっぱる。 深地は持ったえぶることもないので中に入った、メロンパンを見せた。 有が驚いた顔をしていた。 「お昼ご飯の前だけど、みんなで食べましょう」 深地はマヨネーズを見せながら言う。 「でも……」 有が幸則を気にする気配がわかった。そんな有に深地はメロンパンを差し出す。 「ただ、メロンパンにマヨネーズをかけて食べるだけ。食前のデザートです」 深地はそう言い切る。 「食べる」 幸則が即答して手を伸ばした。有も消極的に深地が手渡したものを受け取った。 「いただきます」 「いただきます」 「いただきます」 三人で流木の平たいところに腰掛けて、海を見ながらメロンパンを食べた。メロンパンの上にはたっぷりのマヨネーズ。 食べたのは儀式以来だった。相変わらず食べるのを躊躇う奇抜な見た目だが、食べてしまえば、口の中は平凡な味だ。 有も何も言わずに食べていた。海の遠くの方を見つめている。深地は彼女の心に思いを寄せて、メロンパンを味わって食べた。 一番に食べ終わったのは幸則だった。 「オレ、もっかい行ってくる!」 ビニール袋にメロンパンのゴミを捨てて、海の近くに一目散。神さま(の子ども)然としようとしていた幸則はもうほとんどいない。 「そういえば有さん、フォトフレームの件ありがとうございました。友人の美来ちゃんも、そのお友達も喜んでくれていたみたいです。直接言えてなかったから」 「いえいえ。深地くんは飲み込みが早くて凄いよ」 有が褒めてくれるので、こそばゆくなってしまう。 深地は話題が見つからなくなってメロンパンを大きく頬張って誤魔化した。咀嚼しながら、考える。直接再会できたら有に言いたいことが山ほどあった。伝えたいと願う気持ちが、深地を生かしていた。 そして、深地は最後のかけらを一口で口に放った。自分の心の複雑を噛み砕いて、改めて決心した。 メロンパンをゆっくり食べている有に向かって率直に言った。 「僕、あなたの一番になりたいです」 「え。うん」 有は食べるのをやめて、口元を押さえながらもぐもぐと咀嚼している。そして、嚥下すると、深地の話を聞こうとしてくれた。深地は思いのままに言った。 「前は好きか嫌いかで答えてなんて言ったけど、一番になれるようになりたいです。順番とかどうだっていいのかもしれないけど、それくらい強く、あなたを想ってます」 「……」 急な告白に、有は考え込んでしまった。しかし、沈黙はそれほど長くなかった。 「私は、マヨメロさま——逸人くんを忘れるなんてこと、できない」 膝の上の手に持った大量のマヨネーズの乗っかったメロンパンを見つめた。 深地はそんな有に言葉を選んで言った。 「それも、分かってます。忘れて欲しいなんて言わないです。権利もない。そして、彼はあなたの一部だ」 「……」 有が持っているメロンパンの入った袋がぱりぱりと音を立てる。深地はただ真摯に言った。 「ううん、本当は塗りつぶして消し去ってしまいたい。だけど、信仰があっても僕たちは一緒に生きられると思うんです。どんな形だって」 「……」 信じるものが違っても、重なるあわ目を大切にできていれば、共に生きられると、深地は信じていた。どんな形だっていい。深地も有と生きたかった。幸則と生きたかった。そして、それに偽りがあってはならないと、深地は思っていた。 「だから、好きなことは隠さないで。閉じ込めないで。僕が壊したのに言う権利がないと思う。あなたは一人でも立てると思うからこそ、消さないでほしい。少なくとも、僕の前ではそうしてくれませんか」 有が口を引き結ぶ。そして、堪えきれない感情の雫が、メロンパンにほたりと落ちてマヨネーズをつるりと滑ってパン生地の中に染み込んだ。 有は想いを吐き出す。堰を切ったように涙を流しながら。 「好きは変われない。嘘がつけない」 「はい」 「一番とか三番とか、よくわからないけど、メロマヨさまは私にとって、尊いもので、唯一のものってだけなの」 「はい」 「それはね、逸人くんが今でも好きってことも含んでしまう」 「うん」 「あのね、言っておくけど、今も深地くんのこと、恨んだり、嫌いになったりしてないよ。それに、あなたをもっと知りたいと思ってる」 「……! はい」 「あなたは神さまじゃない。だけど、好きだよ、深地くん」 「……ありがとうございます」 潮の香りがする。たくさんの命が混ざった臭い。嗅ぎ分けるなんて不可能だ。それとよく似た味が唇まで垂れてきたので、深地はメロンパンにかぶりついて誤魔化した。
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