そのままただがむしゃらに突っ走った。自転車は駅の駐輪場に置きっぱなし。どこを走ってるのかもよくわかっていなかった。最後に垣間見えた有の申し訳なさげな表情が後ろ髪を引いてくる。それも全部振り払うように走った。 そして、感情も汗も息も魂も全て絞り尽くして立ち止まると、そこは隣の区との境にある橋の上だった。二車線道路が川を跨いで敷かれた橋は、街灯で明るく照らされている。深地はとぼとぼと欄干の方に近寄った。 何も起こらない、平和な日なはずだった。そんな日に自ら行動した。朝の占いで今日は良い日になるでしょうと出た日にフラれたことだってあったけど、そんな日はフラれたことは自分や彼女にとって成長のきっかけとなる日だったのだと思い込んできた。解釈次第で、困難すら切り抜けられるはずだった。 でも、今日は平和なんかじゃなかった。それが現実だった。これが何もなかった一日として切り抜けられる日になるとは思えなかった。調子に乗っていたと思う。想定以上のダメージに、深地は自分が恥ずかしくなって、欄干に寄りかかった。 その時、スマホが鳴った。 こちらの事情などお構いなしに表示されたのは、見知った友人の名前だった。名前を見て、出るか掛け直すか数瞬間悩んだが、画面をスライド操作して、電話に出た。 「どうしたの美来ちゃん」 「よ、深地。今度さ親友が結婚するんでウェルカムボード作るのね。それで、生花を飾ってこう派手にね、しようと思ってて。そんでそれ深地に頼める? でね、そいつんちんフェレット飼ってるんだけど、その子の写真も入れたくて。でもさ、私なんかそのフェレットに気に入られてないみたいでさ、ペットのくせに超生意気なの! 飼い主に似たんか? って。あ、今大丈夫?」 美来のことは友人としてしか見てきたことのない深地だが、こういう突拍子もなくて一方的なところは姉たちに似ていると思うことがある。 「まあ、大丈夫……」 「え、なに、やたらテンション低くない? なんかあったわけ?」 「……うんまあ、やっちゃったよね……」 深地はことのあらましを説明した。美来を信頼して、有の事情のことも話せる範囲で話した。 「——で、極限まで行っちゃって……その、なんていうか、キレちゃったんだよね……情けないんだけど……」 深地が告白した内容を正直に伝えると、美来は一通り爆笑してから言った。 「深地のキレ方って、人傷つけられないから無意識の内に変な気遣いして余計キモくなるよね!」 「……」 忌憚ない美来の言葉はいつも深地を凹ませる。でも、歯に絹着せない彼女の物言いを尊敬していた。それに何度も助けられてきたからだった。 「普段からガス抜きしないで溜め込むからそうなるんでしょ」 「そうだね……」 「てかさ、あんたはどうなわけ?」 「え?」 「好きな人が元カレの過去の言動に振り回されてるのが忍びないからどうにかしてあげたいんでしょ? まあ、私も話聞いててちょっと彼女重症だなとは思うよ。だけどさ、あんただって元カノの遺言で、あのお店でバイトしてんでしょ? そりゃ影響力に強さ弱さはあるかも知んないけどさ、おあいこなんじゃないの」 「遺言って……花乃ちゃんは生きてるよ……」 言い返したが、盲点だったと納得はしていた。深地だって、他の人の言葉で今ここにいる。自分は元カノの花乃の望むようなカッコいい花屋の店員になれているのだろうか。彼女は言葉だけを残して他の人のところに行ってしまった。 そして深地はその言葉を頼りに今も生きているのだろうか。見返してやりたいと思っているのだろうか。自分でももう判断がつかないくらいに、今の生活と彼女の言葉は同化していた。たしかに、自分は有と同じなのかもしれない。 「まあ言っちゃったもんはしょうがないんだしさ。とりあえず謝って、また告白のチャンスを見定めることだね」 「うん、ありがとね」 電話越しだったが、美来に背中を叩かれている気分になった。すると、「あー、ちょっと待って」と、少しの間声が遠くなって、また近くに戻ってきた。 「また哲太に占ってもらう? 明日とかなら朝空いてるよ」 ペラペラと紙が捲られる音がする。哲太のスケジュールの確認をしているのだろう。 一瞬、迷った。しかし、答えは用意してあったように口から出た。 「今はやめておく」 電話口で、美来が意外そうに「へえ」と言った。その声はどこか嬉しそうだ。 「もう、占いの結果は出てるし。〝挑め〟って、僕、心の支えになってるんだ。今の巡りを信じたい。それを変えたくないんだ。それに僕はまだ、何もできてないと思う」 耳に当たったマイクから「ふーん!」と、明るい声がする。 「深地、変わったね」 自分が今していることを肯定してくれる台詞に、心がほわと暖かくなる。 「それはいい意味で?」 「もちろん」 こう言うとき、彼女の言葉は心強い。 美来にお礼を言ったあと、電話を切った。すると直後にメッセージアプリから【花のフォトフレームの件忘れんなよ! あと思い詰めんなよ!】と美来から送られてきた。深地は微かに笑って【了解しました。ありがとう】と送り返した。 そして深地は橋の下を覗き込んだ。橋の下はコンクリートで固められた川が流れている。 一方方向に流れてそれは止めどない。流れは海へと向かい、太陽に熱せられて雲となり雨になり、山上からこの川の流れに帰ってくる。その循環の中に一石を投じたところで、何も変わらないのかもしれない。深地にとっては大問題だったが、それは平和で、今日はただの平和だったのかもしれない。 先ほどまで自分の行動を悔いていた自分を奮い立たせるように、深地は自分の頬を叩いた。 家までは歩いてどのくらいかかるのだろうか。現在地の目標を求めて、深地はあたりを見回した。
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