「深地くん」 「はい。有さん」 改まった調子で言われて、深地は水揚げのために使っていたハサミの手を止めた。 「寂しい——」 どきりと心臓が脈打つ。深地は期待を持って有の目を見る。 しかし、有の目は、売り物の花に向けるものと、そうは変わらなかった。 「——って、人に言えるって、幸福だと思わない?」 「……へ。えぇ、ああ……。気兼ねなく言える人がいるってすごいありがたいですし、一人じゃないから、ですか?」 「おお、なるほど!」 聞いてきた有の方が感銘を受けたような顔をしている。 アルバイトとして働き始めて一月が経ち、二ヶ月目に入って、有の調子にもだいぶ慣れていた。有はエプロン姿の深地に詰め寄った。 「あなたはそう解釈するのね。教典の一節を思い出したの。彼は書き残すのが嫌いだった。だから、私がこうして思い出さないと。それに伝えていかないとなの」 「あの、信仰はしませんよ……? 悪いですけど」 有は「あ、うんうん勿論。ハーイ」と頭を小刻みに縦に振ったが、食い下がるようにこう続けた。 「でもね、一理あるって思わない?」 好きなものの話をするとき、人の瞳孔は開くという。興奮作用によるものらしいが。目の前にきらきらとまつ毛に縁取られたビー玉の小宇宙が二つ。深地はずっと眺めていたいと、密かに思った。 「あ、それでね深地くん。お祈りの時間だから、ちょっと失礼するね」 有は奥に引っ込んだ。 そうして戻ってきた彼女の手にはメロンパンが二つと、それからマヨネーズがあった。 彼女は宗教をやっている。その名もメロンパンにはマヨネーズ教。略称はメロマヨ教。神さまの息子と、たった一人の信者だけが細々と教義を守っている。 開店時間まであと三〇分ほどあった。有は花屋の仕事をするときと同じ要領の良さで準備を進めている。 店の一角に大胆に設置された祭壇は売り物の花々に囲まれていた。時折店に来たお客さんが花の間に置かれ、ラップされたメロンパンの皿を不可解そうに見ていることがある。 深地にとっては、もう見慣れた光景だった。開店前、お昼休み、閉店後の計三回。朝のうちに三つのパンでピラミッドを皿の上に作り、一回ごとに一個消費する。 有は店内の一角に作られた祭壇とメロンパンの前で手を合わせる。 「今日も一日よろしくお願いします」 そう言ったあと、有は祭壇に置かれたメロンパンの一つを手に取って、一口かじった。そして、空いている手の親指でマヨネーズの赤い蓋を開けると、パンを齧ってできた窪みに中身を惜しみなくかけた。 深地は胃がむかつくような感覚を覚え、無意識に口元に手をやった。週五勤務で一日最低でも二回は見る光景だが、これだけはまだ心理的な抵抗がある。 そんな深地が見ている前で、有は先ほどよりも大きく口を開くと、かぱりとメロンパンにかぶりついた。至福といった表情でもぐもぐと口を動かす。そして、口の中のものがなくなったとみえる頃合いで、再び手のひらを合わせた。 「ごちそうさまでした」 有は深地の方に向く。 「さて、今日も一日頑張ろう」 深地は頷いた。 「はい」 レジ締めや明日の注文確認を終えて、深地は自分のロッカーの扉を閉めた。 特別なこともない筈なのですぐ済んでしまうだろうと予想を立てながら、ミーティングのために更衣室から控室に移動する。軽くノックしてから控室に入ると、有がノートパソコンから顔を上げて、目があった。 「お疲れ様。今日はもうあがっていいよ。ありがとうね」 予想通りの返答を少し残念に思いながら、深地は返事をする。 「はい、お疲れ様でした」 「あ、そういえば。昼に常連さんが来て差し入れ持ってきてくれたでしょ? そこの冷蔵庫に入ってるから食べて」 そういえば、品のいい白髪の女性が予約の花を受け取ったあと、有に近所の高級洋菓子店の名前が入った紙袋を手渡していたのを見た。 「まだ私いるから、ここで食べてもいいし、持って帰ってもいいよ」 「あ、じゃあ、今食べます」 ちょっと前のめりに返事して、そわそわとしながら冷蔵庫の扉をあけた。中に入っていたのはチョコレートケーキ。甘いものは苦手だけれど、そんなのは構わなかった。有の顔が見える位置のパイプ椅子に陣取って、小さなケーキを必要以上に小さくフォークで切り取って口に運ぶ。 「美味しいです」 「そっか、よかったよ〜。よくいただくんだけどね、そのお店のケーキ好きなんだ」 「え、そうなんですか。じゃあ今度僕も買ってきますね」 「本当に? ありがとう」 深地がそれに「はい」と答えると、沈黙が落ちた。深地は無意味に椅子に座り直す。内心の焦りを悟られないように努めながら、ちまちまとケーキのかけらを口に運んだ。 「どう、深地くん。仕事には慣れた?」 マウスでパソコンを操作しながら、有が聞いてきた。 「はい! 有さんの指導が丁寧だったおかげです」 「嬉しいこと言ってくれるなぁ。ならよかった」 有が安心したような顔を見せるので、つい深地も表情が緩んだ。 「このお店ね、持つのに三年くらいかかったんだ。ネット販売から始めて、余裕ができたから店舗も持ちたいなった頃、花の仕入れでお世話になった人に以前も花屋だったこの店のことを教えてもらったの」 深地の目から見ても、店は経営的に不安を抱えている様子はなかった。個人の常連もいて、法人との契約も複数あり、店への客足もまばらと言うわけでもない。 「有さんってすごいですよね」 「そんなことないよ。私なんて。お店だって小さいしね。そうそう、花屋になりたいっていう夢を後押ししてネット販売から始めるように勧めてくれたのもメロマヨさまなんだよ」 ここでもメロマヨさまの話だ。深地は手元を見ずにフォークを刺して、それを口の中に放り込んだ。いけないと思った頃にはすでに遅く、レースペーパーの上には何もない。 そんな深地の様子に気が付かずに、有は話し始めた。 「幸則くんを引き取ったのは三年前。メロマヨさまが、幸則くんの手を私の手に握らせて言ったの。この子が二代目メロマヨさまだ。君がこの子を育てるんだって。そういう使命を与えられたの」 お伽話のような語り口に深地はぎくりとする。 「あ、あの、正規の手続きは踏まれてるんですよね……?」 急に心配になって、訊ねてしまった。仕事はできる有のことだ。間違いを犯したわけもあるまいと思いつつ、祈るような気持ちでいた。 有はあははと言って肯定した。 「もちろん。ゴタゴタはあったし……あるけど。私は幸則くんの未成年後見人として選任されてるよ」 有はその辺りには深く触れてほしくないのか、早口で言った。 ひとまず安心して深地はさらに質問を重ねる。踏み込んでいいのか躊躇する気持ちもあったが、知りたかった。 「あの、聞いていいのかわからないけど、ずっと気になってて。いつまで日枝さんと付き合ってたんですか?」 深地は聞きたいような、聞きたくないような、中間の気持ちで聞いた。 とくに嫌な顔もせずに有は答えてくれた。 「日枝くんがメロマヨさまになった時に私たちは別れたよ。中学二年生の夏休みのことだよ」 「え。そうだったんですか」 「だって、神さまとは付き合えないでしょ?」 「まあ、そうなのかな……」 深地は悩ましく目線を右から左に動かして、無理矢理自分を納得させるように一人頷いた。 「それからも私たちはずっと一緒だった。高校は別の所に行ったから会えなくなったんだけど、ずっとメールで私の世界を守っていてくれたの。毎週〝今週のお告げ〟を送ってくれて、私の心の支えだった。三年前幸則くんを連れて数年ぶりに再会した時は感動して泣いちゃったよ」 「幸則くんのことは知らなかったんですか?」 「……うん」 有は頷いてはくれたが、どこかぎこちなかった。そのせいで深地は核心に迫ることは聞くことができなかった。触れてはならない不可視の膜があるような気がして聞けなかったのだ。有が意図的に避けているようにも思えた。 ——幸則くんは母親はいないと言ってたけど、そんな事はあり得ないわけで。 つまり有は元カレとその奥さんの子どもを育てるために引き取ったということだ。 深地は自分だったらできるだろうかと、考えた。神さまとは付き合えないから別れたと言っていたが、その時だって、メールでやりとりしている間だって、彼女には好意があったはずだ。そんな人と他の人との間にできた自分の子どもを育てて欲しいと言われても、深地は断ってしまうかもしれない。ましてや何も聞かされていないのなら、尚更だ。 ただ、浮気は何回かされたことがあるし、好きな人はすぐに許してしまうので、気持ちだけは理解できた。 それにしても、日枝という人はどうしてそんなことをしたのだろうか。そんな勝手を許されるのだろうか。 「メロマヨさまは幸則くんを私に託して程なくして亡くなったの」 ひどく寂しげに有は笑った。 「お葬式にも出れて、花々に埋もれたメロマヨさまのお顔は、それはそれは美しい死顔で、死んでるなんて思えなかった。彼は肉体を捨てたことでまた一段存在が高次元なものへと転じることができたんだと思う。だからちっとも悲しいことじゃないの。いつだって教義は私を守ってくれているしね」 深地がかける言葉を探している間に、有はパソコンを閉じて立ち上がった。 「たくさん苦労したけど、幸則くんと一緒にいられるし、良いことばかり。これもきっとメロマヨさまのお力ね!」 まるで自分のことを無視してしまったような言い方に胃のあたりが切なくなって、深地は思っていることをそのまま言った。 「僕は、あなたの力だと思います」 「えー、ふふ。ありがとう。でも、メロマヨさまの加護があるからこそなんだ。言っても、仕方がないかもしれないけど」 若干棒読みのトーンで発せられた言葉は、有にしては珍しく、棘で距離を取るようだった。 その時深地は踏み込んではいけないラインを理解した。そして気後れして「そろそろ帰りますね」と椅子から立ち上がった。 * 「深地、ジュース」 「幸則くん。そんなところに……そんな座り方ダメだよ」 深地は、作業台の上に乗っかってに片膝を立てて座っている幸則を嗜める。 幸則は夏休みの真っ最中で、開店前の店の作業台の一角を陣取っている。このごろの幸則は開店すると、控室で宿題をしたり、ノートパソコンで動画を見たり、外に散歩に出掛けて長時間帰ってこなかったり、気ままに過ごしている。 「有はなんも言わないのに」 そう言って幸則は体勢を胡座に変えた。もお、と言って深地は幸則の膝を軽く叩き、そのまま冷蔵庫のある店の奥に向かった。 コップに炭酸ジュースを入れて戻ってきても、幸則は相変わらず台の上だ。 「有さんが怒らないからっていうこと聞かないのはダメだよ」 「有は普通に怒るよ。他人ぎょーぎだけど」 幸則は面白くなさそうに答えた。有に他人行儀な対応をされるのが不服なようだった。 諦めてコップを差し出す深地に、幸則は言った。 「深地はすごいよ。働き始めてもう一ヶ月たつよね」 「照れるなあ。そんなに役に立てるのかな」 「そうじゃなくて。よく続けてられるなって」 少し小馬鹿にしたように言って、幸則は受け取ったコップを傾けた。 「何も知らないで入ったバイトさんでも一週間ちょっとしか続かなかったよ。有は誰にでもああいう感じだから。有は変わってるって、深地もほんとは思ってるんでしょ?」 「……。そりゃちょっと不思議なところはあるけど」 深地は言葉を濁す。幸則は無邪気というには差し支えのある手加減のなさで続けた。 「有、仕事すごいし、いつもにこにこして優しいし、ジョーレンさんもいるけど、友達はいないんだよ。お客さんにぽろっと言ちゃうくらいならいいけどさ、メロマヨさまの話しかしないからね。オレのことも神さまの子なんだって普通に言っちゃうんだ。そのせいでオレのことみんな話しづらいみたい」 「……」 深地は幸則の観察眼に舌を巻く。 「オレは小学校で神さまやってるなんて言わないのに。友達いなくなるってわかるし。有ってそういうとこダメだよね。内緒にしとけばいいのにさ」 ケラケラと笑う幸則には年相応の悪気のなさが見える。彼は今一〇歳。つまり、有に引き取られてきたのは七歳の時だ。ある程度は自分の状況が特殊なものであると理解しているらしい。 「あのさ、幸則くんは、その……いつから神さまやってるの?」 デリケートな質問になるので、深地は言葉を慎重に選んで聞いてみる。上の姉の子ども対してサンタクロースの存在をまだ信じているのか探った時よりずっと緊張した。 幸則は気に障った顔もせずに答えた。 「小学校上がる時。まだパパが生きてる時だよ。パパはある女の子の神さまで、次はオレがその子の神さまになるんだよって教えてくれたんだ。で、その女の子っていうのが、有」 「え……」 日枝の意図が読めず、深地は困惑するばかりだ。 幸則が急に作業台から飛び降りた。 「深地に見せてやるよ」 言いながら、奥にかけていく。そして戻ってきたかと思えば、ランドセルを腹に抱えながら、ごそごそと中身を探っていた。あまりにかき回すので、一冊こぼれ落ちた。学習帳には〝緑山小学校 四年 日えだ幸のり〟と書いてある。幸則は落ちたノートを無視して探り続ける。 「これ」 幸則はランドセルに詰め込まれた学習帳の間から、一冊のノートを取り出した。 「これが〝せいてん〟だよ」 幸則は表紙が見えるように、ノートを深地に向ける。どこにでも売っているような B5サイズのキャンパスノートだった。表紙は、色が薄くなっているところがあった。他のものと擦れたのだろう。そして、題目を書く為の一番上の罫線に沿って、黒い細マジックで〝せいてん〟と書かれていた。 深地は訝しんだ。確か、メロマヨさまは書き残すことが苦手で聖書のようなものはないと有が言っていたはずだ。 「中、見せてくれるの?」 深地が言いながら手を伸ばしかけると、幸則はノートを引っ込めた。 「ダメ。これはけいしょうしゃだけが読めるんだ。有もこのノートのこと知らないんだよ。深地は長く続けててエラいから内緒で教えてやっただけ。だから、有にも言わないでね」 幸則はしーっと人差し指を口の前にかざした。 「神さまだけができる、神さまのやることが書いてあるんだよ」 「そうなんだ」 「内緒だからね? 勝手に中身見るのもナシだから。まあ、深地はどうせ読んでも神さまになれないけど」 神さまにはなれない。そんな普通に生きてたら言われることもない非日常でいて、人間である者にとって当たり前の言葉に、なんとも言えずしっかり傷ついて、深地は胸に手をやった。 中身がとてつも無く気になるが、無理に見ようとは思えなかった。それにしても、自分の息子に神さまだと自称し、ノートまで残すところといい、日枝の行動の真意がさっぱりわからなかった。有や幸則の言葉から、朧げに日枝の人物像を想像するが、像を結ばない。わかることといえば、日枝はいわゆる厨二病を大人になっても抱えていたタイプだったのだろう。 「日枝さん……お父さんってどんな人だったの?」 「別に。普通だよ。神さまってだけ」 深地は苦笑いを浮かべてコップの中身を飲み干した。そして、無意識に独言が漏れた。 「有さんは日枝さんのどこに惹かれたんだろう……」 「有に聞いてみたらいいじゃん」 「それは、うーん」 きっと目を輝かせながら熱弁してくれるだろう。そんな想像が簡単にできてしまうあたり、深地にとって有の信仰は日常の一部となっていた。 しかし一方で、深地は有に聞いてしまったら自分がどういう心境になるのかわからなかった。彼女の心と信仰に今の自分がどう反応するのか。あの占いの結果による影響かもしれない。 それに昨日のこともある。変に分け入ってしまうことで、今の関係を崩してしまうことが怖かった。熱に弱い花と同じで、情熱を注いでも萎れるのが早くなるばかりだ。 幸則は百面相する深地の顔を観察しながら言った。 「有ってすごいけど、ちょっとずつ外してるんだよ」 「そうかもしれないけど、有さんに欠点なんてないよ。不満だって……ないし」 「はは。深地ってすごいね。やばい。すごいやばい」 やばいってどう言うことだろう、と思いながら幸則をみると、彼は楽しげに笑っていた。 「有のダメなとこいっぱいあるし。深地は全然有のこと知らないんだよ。有は一人じゃダメダメだし。一人きりじゃいられないんだ。あとオレは、有が俺のこと、くん付けで呼ぶのがちょっと嫌。別に幸則でいいのにさ」 そんな幸則を見て、深地は微笑ましくて笑ってしまった。 「なんで笑ったの」 「なんでもないよ」 深地には子どもはいないし、知り合いの子どもと触れ合う機会もそんなになかった。だから子どものいる感覚なんてわからなかったが、幸則と接するようになって、この小さな人を可愛いと思う気持ちが親の気持ちと近い感情なのだろうと思うようになった。 彼は有さんの宝もの。そう思うだけで、愛おしく思えてしまう。彼女が愛でるものはそれだけで価値があるようにも思えてしまう。だから幸則に対してこんな気持ちになっているのだろうか。 よく恋愛に関して主体性がないと言われる深地だが、こればかりは仕方がない。好きは伝染するものなのだと思う。 幸則も、さほど深地を警戒していないように思えた。むしろ好意的で同年代の友達と接するような気安さで深地に絡んできたり、まるで兄のように甘えてくれたりする。それは裏を返すと、彼にとって深地はさして脅威のある存在ではないのだろう。それは好都合だった。有の手前、というのも勿論あるが、ただ単純に、幸則とも仲良くなりたいと深地は思っていた。 「あ、そうだ」 ふと、幸則がノートをランドセルにしまいながら言った。お腹側に持ったランドセルの冠が開かれて、幸則の頭上でゆらゆらと揺れている。 「今日のお昼はオレも参加して儀式するから。月に一回だけ、先代の力を下ろすためにやってるんだ。深地も見てみれば」 気安い調子で、宗教儀式に誘われた深地は、即答できなかった。幸則がサッカーの試合を見に来て欲しいくらいの感覚で言っているのはわかっていた。 「別に見てればいいだけだよ」 幸則は人の心の機微に聡い。だからこそ、小さな彼に気を遣わせたくなかった。 「じゃあ、見学させてもらうよ」 深地が答えると、幸則ははにかんだ。
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